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YYBY、ダブミキサー井出によるブログ。

松籟夜話まとめ第35回(耳の眼差しrevisited第2回)

著者の一人、津田さんの「フォークロアの汀」が更新されています。今回から久高島。久高島といえば松籟夜話を象徴する一枚、「イザイホー」が録音された場所。ぜひ読んでみてください。

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『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P326より引用。

 

 耳の眼差しをどこかに向ける。全球状にうっすらと広がっていた注意がある一点を中心に濃密化し、世界を枠付けする。耳の視点と視界がパースペクティブとともに浮かび上がる。松籟夜話の場合は録音を参加者の前方にセットしたスピーカーで聴いているため、再生音は全周三六〇度からではなく、前方からしかない(もちろん反射音や環境音はあるが)。また、参加者がみな同じ音源を同時に聴き、体験を共有しているため、聴くプロセスを一定程度「外化」して眺めることができる。この環境において「耳の視界=聴覚のフレーム」が存在をあらかじめ指摘し、それを意識しながら聴き進めることにより、「聴くこと」をいま・ここにある身体による能動的な行為として浮かび上がらせることができる。
 エルンスト・マッハは『感覚の分析』で、ソファに寝そべり右目を閉じて見える世界(左目の視界)を、自身の鼻が視界の右端を画する図解として描き出した。自らの身体の一部は見える世界に含まれており、世界の一部を隠している。同様に視点とフレームがある以上、いま聴いている音は固有の身体の構図に沿ってトリミングされた一部分に過ぎず、世界のすべてではない(障害物の向こう側は見えないとはっきりとわかる視覚とそうではない聴覚の違いはあるが)。
 

 

「「耳の視界=聴覚のフレーム」が存在をあらかじめ指摘し、」とは、音源の間に挟み込み言葉のことだろうか。フレームとは眼鏡のフレームのように「枠」と解釈したい。著者の一人福島さんのブログのタイトルは「耳の枠はずし」である。本書では引用箇所の続きにいくつかの事例が紹介されている。再度P326より引用してみる。

 

 フリー・インプロヴィゼーションの記念碑的作品であるデレク・ベイリー『Solo Guitar volume1』(Incus)では不安定なピッキング、ミュート、ハーモニクス、スクラッチ等が生み出す壊れやすく不定形のサウンドが、両足元の二台のヴォリューム・ペダルの操作によりステレオ配置された二台のギターアンプから配合・噴出され、聴覚のフレームを横切り、あるいは端を掠めて錯乱し、たちまち耳の視界の圏外へと脱出して、フレーズの線を描くべき音の結びつきを許さない。

 

P327にこうもある。
 アーティストによる音世界の探求は、こうして「耳の視界」という設えの限界を明らかにする。そこにあることは見ることと聴くことの本来的な差異に他ならない。

 


「耳の視界=聴覚のフレーム」とは音を聴く我々の耳の仕組みでありそうだ。そしてその可能性と限界について書かれていると思われる。私はデレク・ベイリーの引用した作品を実際に聴いたことがあるが、「両足元の二台のヴォリューム・ペダルの操作によりステレオ配置された二台のギターアンプ」という仕組みで録音されているとは知らなかった。この前提であらためて聴いてみるとずいぶんと違って聴こえるだろう。松籟夜話でかけられる音源全てではないだろうが、敢えて言葉によって「耳の視界=聴覚のフレーム」を指摘することにより、耳の眼差しという聴く態勢を創出するのだ。それは「こうしてください」という指示ではなく、耳の能動性をうながすために挟み込み込まれるイントロダクションのようなものだろう。これは確かに「聴く身体」を標榜する松籟夜話にとっては有効な方法である。参加者それぞれの「聴く身体」は違う、違うが故に「ああもきこえるこうもきこえる」という聴こえの違いが生まれる。そうするにはまず耳を能動的に働かせること、聴く態勢をつくることが必須である。耳の能動性についてこれまで書いてきたが、言葉を挟み込むこによって「「聴くこと」をいま・ここにある身体による能動的な行為として浮かび上がらせることができる。」というある種の手法である。思えば聴く側の耳の能動性ばかり書いてきたが、これはナビゲーター二人の聴取の能動性へと導く仕掛けである。この言葉を誘導とするか、あくまでも導入として扱うのか。言葉をかける方もかけられる方も、言葉の受け取り方によって音の聴こえはかなり違うものになるだろう。

 

最後に引用した箇所に「「アーティストによる音世界の探求は、こうして「耳の視界」という設えの限界を明らかにする。」とある。音楽が製品になるまでには、基本的に録音、ミックス、マスタリングという工程がある。「耳の視界」とはミックス作業における音の配置が生み出すもので、大雑把に書くと、ミックスとは録音した音をどの位の音量で、どの位置に音を置くか、ということである。(これはステレオ録音のみ、モノラル録音は各楽器の音量差のみである。)まさしくアーティスト側からの「耳の視界=聴覚のフレーム」の創造である。そしてこのアーティストからの「耳の視界=聴覚のフレーム」の提示を、松籟夜話では歸山スピーカーというモノラル・スピーカーによって再定義する。モノラル・スピーカーでは、ステレオ録音の音源であっても再生はモノラルになる。これも松籟夜話側からの「耳の視界=聴覚のフレーム」の提示である。これが可能であるのは、モノラル再生でも有り余るほどに音源の持つ力を発揮させている歸山スピーカーの威力があってこそだ。

 

デレク・ベイリー『Solo Guitar volume1』聴いてもいまだにわけがわからない、噴出する音に呆然と立ち尽くすだけである。そこに言葉は要らないのではないかと思うが、たくさんの人が様々な表現を尽くして言葉にしようとする怪盤である。

 

松籟夜話まとめ第34回(耳の眼差しrevisited第1回)

第二章「耳の眼差し」、何を書いたか振り返ると一回のみの投稿だったので再訪する。

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P324より引用。

 

 見ることが能動的であるのに対し、聴くことは本来的に受動であり、自らは動くことなく何かを受け止めることと考えられやすい。なるほど耳には目蓋ががなく、眼を瞑るように「耳を閉じる」ことはできない。視覚においては眼を開いているときだけ脳内のスクリーンに映像が投影されるのに対し、耳はただの孔で、ただただ音が流れ込むに任せている。そこには確かに聴取するか否かを能動的に選択する余地などないように見える。また、身体の動きを伴うか否かについても、なるほど視覚と聴覚では対照的だ。私たちはそれまで見えていなかったものを見ようとするとき、そちらに眼差しを向けて視線を走らせるし、一望では捉えられない対象の全体を見たいときには視線を巡らせる。一方、何かをよく聴こうとして、耳をそばだて、澄ますけれども、これらは耳が捉える内容に意識を集中することであって、耳の方向を調整する動作を伴わない。聴取に集中するとは「身じろぎもせず耳を澄ます」ことだ。周囲で何か物音がして振り返るのは、その音の原因を視覚によって見極めようとするためであって、その音をよりよく聴こうとしているのではない。これは見ることのできる範囲が身体の前面に限られているのに対し、聴くことならぐるりと三六〇度可能であることとも関係している。                   
 しかし、実際には耳は注意を巡らし、視覚の焦点を移動させて「眺め」回している。先ほど挙げた「カクテルパーティー効果」もその例だし、周囲の会話で自分の名前が挙がれば瞬時に耳が拾い上げる。我家の飼い猫は首を伸ばして「聞き耳を立てる」ときに、さながらレーダーのアンテナのように耳を左右別々に動かし回転させる(眼を瞑り眠っているように見える時でさえ、時折そのようにして周囲を探っている。)耳こそ動かさないが、私たちも同じようなことをしている。

 


前回までダイアグラムで聴くことの能動性をいくつか書いた。今回第2章、耳の眼差しの第3項で、能動的な行為としての「聴くこと」、が書かれているのであらためて読んでみたい。「目には目蓋があり、目蓋の開け閉めをする選択が能動的であり、耳はただの孔であり、ただ音が流れ込む受動的な器官である。」そんな受動的な器官が、カクテルパーティー効果や、自分の名前を呼ばれると耳が拾い上げることができる、という能力を備えているのは面白い。耳は受動的な器官であっても必要な音を聴き分けることが可能であり、それをほぼ無意識の即興でおこなっているということである。それは本書にも出てくる聴取の野生ともいえるかもしれない。世の音が全て同じに聞こえてしまったら命に関わるからだ。そしてそれは、聞き分けることを必要とするほどに、世界が音に溢れているということでもある。聴取を能動的な行為にするためには、聴くことの無意識の即興と向き合うことなのかもしれない。無意識を意識するのはそう簡単ではないように思う。

 

そもそも我々が暮らすこの世界はオールオーヴァーである。



引用した箇所に「実際には耳は注意を巡らし、視覚の焦点を移動させて「眺め」回している。」とあるように、視覚と聴覚は連動しているよう思う。自分の後で何かが割れたような音がして、その音の元を振り返って見た、という経験は誰しもにあるだろう。この反応から察するに視覚と聴覚の関係は耳でとらえた音を目で追うということだ。音が伴う現象においては、視覚より先に聴覚が働き何が起きているのかを判断している、といえそうだ。かといって視覚より聴覚の方が優位に働くわけではないことも面白い。この現象が眼前で起こると、先に何かが割れることを察知するのは目である。「これは見ることのできる範囲が身体の前面に限られているのに対し、聴くことならぐるりと三六〇度可能である」。

人の物事を認識する際の感覚から知覚へといたる過程を考えると、(強引だが)感覚を聴覚へ、知覚を視覚へと置き換えることも可能ではないか。だとすれば、感覚である聴覚が物事を認識している間の時間はすごく短いように思う。実際の感覚がある時間はほん少しであり、感覚が残っている、というがそれは知覚してしまった後のことではないだろうか。(それも感覚には違いないが。)聴取の能動性とは、この感覚の間に留まり続けることのように思える。ジム・オルークの「それがピアノの音だとわかればそれ以上聴くのをやめてしまう」という発言にあるように、聞こえてきた対象をまず音で聴いて、そして目でみる。それが問題ないことだとわかれば意識から外れてしまう、という聴覚の仕組みを上手く説明している。ただ逆の場合、ピアノを視覚で先に認識し、音を聴いたところで聴くのやめてしまうのだろか、というと違うような気もする。このようなことを考えると、視覚が含まれるライブ現場や映像作品、インスタレーション作品と、基本的には聴覚の体験である松籟夜話や、本書における聴くことは別物だといえるのかもしれない。

 

私は眼鏡がないと世界を見ることが困難になる。耳も加齢によりだんだんと聞こえなくなるが、視力が落ちるスピードはすごく早いのではないだろうか。いわゆる近視は小学校低学年頃から中学生頃にはじまるという。脳が受け取る情報の内80%が視覚からの情報だといわれるが、視覚というか視力とは随分と脆弱なものだと思う。

 

松籟夜話まとめ第33回(ダイアグラム最終回)

松籟夜話revisited 第二夜「オールオーヴァー」の予約受付が開始されました。詳細はフライヤーにて確認をお願いします。「オールオーヴァー」で3時間はヤバいと思う。後の生活に支障をきたすのではないか、、、気合い入れて参加してください。
オールオーヴァーに関してはこのブログでも書いたので参考にしてみてください。

・『松籟夜話plus』in京都へのお誘い、ワード集第49回 オールオーヴァー所感編1 - Past<Future

・『松籟夜話plus』in京都へのお誘い、ワード集第49回 オールオーヴァー所感編2 - Past<Future

・『松籟夜話plus』in京都 ワード集第51回 オールオーヴァー所感編3 - Past<Future

・『松籟夜話plus』in京都 ワード集第52回 オールオーヴァー所感編4 - Past<Future

 

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P399より引用
※ダイアグラムに入って本の文章をほぼ丸々引用しているのでネタバレを気にされる方はご注意を。

 

それでは「耳の眼差し」の三相から成る三角形と「音の振る舞い」における〈音響・環境・即興〉をどう重ね合わせるべきか。(中略)
 しかし、「耳の眼差し」の三相と「音の振る舞い」の〈音響・環境・即興〉はおよそ、異質であり、このように(第14章・第6節で触れているゲーテの『色彩論』)重ね合わせることはできない。それゆえこの後、本書第8節では二つの三角形を引き離し、平行な上底面と下底面と位置づけて論じている。
 だが同一平面に収まらないにしても、やはり項目同士の類縁性から考えるのが自然だろう。二つの三角形を見比べて、すぐに気づくのは「オールオーヴァー」と「暗騒音」の二項の〈環境〉感覚とのつながりの強さである。これに基づいて〈環境〉を先の二項の中間に位置づけると、「地質学的想像力」と向かい合う形となる。〈環境〉の空間性に対する「地質学的想像力」の時間的性格に符合している。さらに「オールオーヴァー」とは「図」の卓越であり顕在化の方向、対して「暗騒音」は「地」の隆起により潜在化する方向である。前者と〈即興〉、後者と〈音響〉の類縁性が強いと考えられ、これに基づいて配置すると、〈即興〉と向かい合うのが「暗騒音」、〈音響〉と向かい合うのが「オールオーヴァー」となる。これもまた〈即興〉とは〈地〉から〈図〉を浮かび上がらせることであり、〈音響〉とは「オールオーヴァー」な犇き合いから析出してくるもの(先ほど、第三章で触れた木村と武満の対話を思い出そう)との対比をかたちづくる。
 以上の議論を踏まえ、【図1】(下の写真)を改めて見直して見てほしい。最初に眺めたときとは異なる示唆内容や可能性が見えてくるだろ。
 先ほどは「耳の眼差し」の三相を基軸として配置を進めたが、逆に「音の振る舞い」の〈音響・環境・即興〉から見てみるとしよう。〈環境〉+〈即興〉(環境的即興)は「オールオーヴァー」に展開し、〈音響〉探求の深さを必要とする。〈即興〉+〈音響〉(音響的即興)は〈音響〉を屹立させる(音を音響化する)力を「地質学的想像力」によって探求し、「力の場」としての〈環境〉を見出す。〈音響〉+〈環境〉(音響のフィールドワーク)は「暗騒音」の中に身を沈め、閾値下の微小表象に感覚を研ぎ澄まし、〈即興〉的聴取により道を切り開く。

 

これまで〈音響・環境・即興〉の「音の振る舞い」、これらの「動詞化」を見てきた。それは音の振る舞いの三組の活性化であり、これも動詞である「聴く」という行為を深く掘り下げることであったように思う。「動詞」で物事をとられることによって対象が生き生きとしてくるのを感じることができるし、「動詞」で考えることで実際に身体運動としてイメージすることができる、ということは聴くことに限らず、日常でもこの考えをベースに生活していると今までとは違う見え方や感じ方、とらえ方ができるなと思った。聴取の能動性の箇所を書いていて感じたのだが、結局のところ自分自身の心の持ちようで世界の相貌はいかようにも変化する、ということだ。その世界も変化し続けている。そして〈音響・環境・即興〉の相互作用が及ぼす立ち現れであり、発信者⇒受信者という一方通行ではなく、発信者⇔受信者という両側通行によるコミュニケーションにおける可能性を感じさせるものであった。実際松籟夜話を体験して感じた「ソーシャル・リスニング」の可能性はこの発信者⇔受信者というコミュニケーションが要因となっているのは間違いなさそうだ。それは松籟夜話の特筆すべき点であるとあらためて感じた。

ダイアグラム最終回は「耳の眼差し」である、「オールオーヴァー」、「暗騒音 いまそこにあるざわめき」「地質学的想像力」の三相の、「音の振る舞い」である、〈音響・環境・即興〉への重なりである。ここでの「耳の眼差し」と「音の振る舞い」の重なり合いは見事だと思う。この重なり合いの説明を引用して、あらためて図と照らし合わせながら読んでみると、(大袈裟に感じるかもしれないが)この世界の音の成り立ちを説明しているようであり、世界の音の相貌がここにあるように感じることができる。「オールオーヴァー」、「暗騒音 いまそこにあるざわめき」「地質学的想像力」の三相は、通常の耳の眼差しでは適用しない特例的なケースを採り上げたものであった。実は我々が何気なく過ごしている世界は実はここでいう特例だらけである、ということをこの三相は示しているのではないか。〈音響・環境・即興〉が普段我々を取り巻く音であり聴こえであるならば、そこに重なる耳の眼差しの三相を「地上の音の蠢き」とでもいってみる。〈音響・環境・即興〉と「オールオーヴァー」、「暗騒音 いまそこにあるざわめき」「地質学的想像力」、この二つの重なりは、それぞれが背中合わせで存在していることをこの図は表しているように思う。このことは「ふだんは「透明化」されている身体や環境、あるいは音(音響)への気づき」であり、「なめらかに仕立てあげられた知覚のあちこちに口を開けている深淵」へと気づくことであり、その先は知覚から感覚への逆行である。そこは「時間」と「空間」が入り混じった状態であり、音楽を時間芸術としてのみとらえるのは違う。本日津田さんがXに「音楽や映画や舞台作品など「time based art」という言い方があるらしいが、音楽はどう考えても時間よりも空間に属する事象だと思う。音が鳴った瞬間、その空間の形が現れ、その空間にいる。時間軸でそれがどう変化していくかは、音楽とはまた別の何かのように感じる。」と投稿されていた。私は音楽が時間芸術だという考え方が腑に落ちない。(この考え方は何処からやってきたのか全く知らないが調べてみると面白そうである。)音が空間での現象であることは体感を伴って理解できる。そこには身体がある。時間という概念に身体を照らし合わせることは難しい。以前から「いままここ」が、私についてまわっている。「いまここ」は時間である側面が強く、身体で感じることが難しい、というか、ほんの一瞬であることが「いまここ」から遠ざかっていることの一因であるように思う。

松籟夜話まとめ第32回(ダイアグラム第6回)

続、即興化。

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P396より引用。
※ダイアグラムに入って本の文章をほぼ丸々引用しているのでネタバレを気にされる方はご注意を。

 

 ここでイメージされているのが、先に参照したルドルフスキーの『建築家なしの建築』になぞらえれば、「演奏家なしの即興演奏」と言うべきものであることに注意しよう。達成すべきヴィジョンを掲げ、建築行為を統括する設計思想や意図の代わりに、無名の工匠たちによる環境や素材とのミクロな対話・対応の集積・展開があるように、直感や想像的意志で演奏行為を統括する演奏主体(意識)の代わりに、身体(神経や筋肉、骨格)による音響や環境とのミクロな対話・対応の集積・展開がある(楽器は「道具」として身体と環境の中間に位置づけられよう)。無論、演奏主体(意識)が全く存在/介在しないなどと言い募るつもりはない。ロラン・バルトが「書くは自動詞か?」で述べているように、書くという行為に先行して、書く主体や内容があらかじめ確定的にあるわけではなく、書く過程を通じて同時並行的にかたちづくられていくのだ。
 バルトの例に見られるのは、行為主体=主語の地位の希薄化であり、目的語を取る他動詞において、働きかける主体と働きかけられる対象が、同じ一つの動詞=行為を通じて、共に生成してくるプロセスである。この「動詞化」の議論のスタートが「音響・環境・即興のうち、〈即興〉は人間(主体)のアクションだが、〈音響〉と〈環境〉は、通常、物資や現象、配置、状態等ととらえられている」との問題提起だったことを思い出そう。そこから「他の二項も対等と考え」という仮構のもとで開始した議論は、当初の前提だった行為/アクションの主体が希薄化するところまでたどり着いた。

 

ここでまた、伊藤亜沙さんとの、下北沢本屋B&Bでのトーク・イヴェント「見る/聴くことのあいだで考える、感覚の冒険」発言要旨より引用させていただく。

耳の枠はずし 『音響・環境・即興 松籟夜話――〈耳〉の冒険』(カンパニー社)刊行記念トーク・イヴェント@下北沢本屋B&B 津田貴司×福島恵一×伊藤亜紗 「見ること/聴くことのあいだで考える、感覚の冒険」 発言要旨

(6)主語を消す、希薄化する主体、という箇所がある。
津田 私の書いたパートに「夜が夜の音を聴いている」という表現をした箇所があって、これは別に詩的なレトリックを弄したわけではなくて、真夜中に録音していると本当に自分が消える気がするんですね。そうやって主体が消えてしまうと、後には「聴く」という動詞だけが残った状態になるんだと。
福島 主体があって、対象があって、、、ではなくて、主体と対象の間の距離が消え、相互に浸透して一つになってしまう感じでしょうか。
津田 月も出ていない真夜中に録音をしていると、自分がいて、いないような感じで、対象との距離を視覚で捉えることもできないし、それでも聴いている。主体も対象も消えて動詞だけが残っているという状況に似つかわしいのは「見る」よりも「聴く」なんじゃないかと思います。「聴く」は目的語がなくても成立するというか。
福島 そうしたことについて、この本の中でもロラン・バルトの「書くは自動詞か?」にも触れていたりするんですが、そうしたことよりも今みたいな身体の輪郭が溶けてなくなっちゃう話の方が「体でわかる」と思います。私は真っ暗な山の中で過ごしたことはないけど、浴室の灯りを消して真っ暗にしてぬるめの湯船に浸かっていると、やっぱり身体の輪郭がどこかに行っちゃう感じがします。
伊藤 それはこわくないんですか。
津田 こわくないですね。さすがに熊に遭遇したことはないですが、鹿と猪なら間近で出会ったことがあります。こちらの様子をうかがっていて、たぶん「何をしてるんだろ」という好奇心なんですね。こっちがそのまま反応しないでいると、「よし、わかった。許してやる」みたいな感じでどこかへ行ってしまう(笑)そんな状態であぜ道とかを歩いていても、片側がたぶん2mぐらい落ちて用水路になっているんだけれど、絶対踏み外さないです。体の感覚が慣れてくると普通に歩けます。走るのはさすがにちょっとこわいけど。
伊藤 それを聞いて思い出したんですけど、角幡唯介さんという冒険家の方がいて、アラスカを犬ぞりで旅しているんですが、何週間も帰れなかもしれない遠征に出る時に、角幡さんは心配だから食料とかをいっぱい持っていこうとするんだけど、イヌイットの人達は全然持っていかない。彼らは大地と自分が一体化していて、その間に境界を設けていないので、食べ物は必ず見つかるという確信があって不安がないらしいんです。もちろん分析的に考えれば、彼らはその土地をよく知っていて、細かい情報を認識するスキルがあるから、、、ということだと思うんですが、それでもやはり、「一体化しているがゆえの不安のなさ」というのがあると。そんなことを思い出しました。

 

本題とは少しずれるし、音楽トピック的なことを書くのは無粋に思うが一つ。主語を消す、希薄化する主体、という題目に近い実験音楽での実践がある。(読み飛ばしてください)
本文には「演奏者の主体」とある、演奏者もそうだが「作曲家の主体」という問題を考えた作曲家が多数いた。本に出てくるジョン・ケージがそうだし、彼の周りいた作曲家の多くもそうだった。彼らが問題にしたのはとてもざっくり、私なりの解釈でいうと「音楽を作るにあたり、作曲家が音楽に介入する必要はあるのか、あるとするならばどうするのか」ということだ。(そのような発想にいたった一つの要因は、西洋音楽、クラシック音楽のあまりにも熟し過ぎた成熟が挙げられるだろう。)彼らは実にさまざまな方法で「作曲」「作曲家」という行為・主体を問うた。そしてその問いは今現在も続いている。そんな彼らな音楽は「実験音楽」と呼ばれる。「前衛音楽」と混同されがちだか、(たしか)『実験音楽』の著者、マイケル・ナイマンは「実験音楽では演奏された音のがどのような結果になるのか誰にもわからない」というものだったと思う。興味のある方はこの2冊の『実験音楽』を読んでみてほしい。そこには音、音楽に対する問いの投げかけが数々がある。それは「音の振る舞い」への耳の眼差しに他ならないと私は思う。予め結果がわからない、という点においては即興演奏、フリー・インプロヴィゼーションと似ている。そして聴いてみると実験音楽もインプロもいわれないと区別がつかない作品が多いのが面白い。

そしてここからは少し私自身の演奏のはなしを書く。(読み飛ばしてください)

津田さんの夜中のフィールド・レコーディングの箇所で「真夜中に録音していると本当に自分が消える気がするんですね。そうやって主体が消えてしまうと、後には「聴く」という動詞だけが残った状態になるんだと。」私も演奏しているとだんだんと自分が演奏している感覚がなくなるのだ。自分ではない誰かが演奏しているのを聴いているような感覚。自分の音のだけではなく、他のメーバーの音も似た感じがあり、まるで知らない違うバンドが自分達の曲を演奏しているのをどこかから聴いているような感覚になる。そこに身体は伴ってこない、ぼんやりとした意識だけがある。演奏後に演奏をしたという記憶がほとんどない。でも聴いている、それもかなり客観的に。自分なりに分析してみると、かなりの集中状態にあり少しトランスしているのではないか。演奏している曲も一つのフレーズを長い時間反復しているというのも要因の一つかもしれない。反復運動はトランスするための基本であり、太古から儀式や祭事で用いられてきたのはよく知られているところ。私もなぜ反復しているかと問われれば、気持ちがいいからだと答える。


ここから本題。
〈即興〉は人間(主体)の行為/アクション、だということが〈音響〉と〈環境〉とは違う。ということで、〈音響〉と〈環境〉を〈即興〉と同じ立場まで引き上げる、ということをこれまでしてきた。ここでは、ルドルフスキーの『建築家なしの建築』の例で「演奏家なしの即興演奏」とある。「無論、演奏主体(意識)が全く存在/介在しないなどと言い募るつもりはない。」とあり潔い。直接は書かれていないが、ここで考えられていることは、〈即興〉の弱体化という風に考えてもよいだろう。それは、悪い意味ではなく、力を抜いてみる、くらいであり〈即興〉が〈音響〉と〈環境〉と対等であるためである。本書において主語はあくまでも「音」である。ここの引用元を考える上でこの前提は大事かなと思う。
デレク・ベイリーの『インプロヴィゼーション-即興の彼方へ』に感化された私は即興をするわけでもないのに、即興について考えた時期があった。(デレク・ベイリーの前にカンパニー社からでている、『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』(ジョン・コルベット『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』‐カンパニー社があったことは特記しておく。)その頃に考えていたのが、即興とは「思考・意思より先に手が動く」ということだった。その手の動きが手癖だったらもともこもないのは今ではわかるし、ベイリーのいうノンイディオマティック・インプロヴィゼーションとも違う。ただ「思考より先に」というのは今回書いている内容と遠くないように思う。〈即興〉において、即興する側、それを聴く側という一方通行ではなく両側通行とする。それは「聴く」という行為の能動化、即興化による。それにより、発信者→受信者という構図がなくなる。すると主体が消える。発信者⇄受信者の相互関係が生まれると、発信者も受信者もなくなる。ここまではこれまでに考えてきたことだが、この先に何があるのか、ないのか。答えは単純に思う。〈即興〉という主体が消えることで、残るのは〈音響〉と〈環境〉である。そして誰もいなくなった、めでたしめでたし、とはいかないのである。〈音響・環境・即興〉の三つ組であるから、即興が消えるのはどうなのだろうか、という疑問が残る。

そこでヒントになりそうなのが、「身体(神経や筋肉、骨格)による音響や環境とのミクロな対話・対応の集積・展開がある(楽器は「道具」として身体と環境の中間に位置づけられよう)。無論、演奏主体(意識)が全く存在/介在しないなどと言い募るつもりはない。ロラン・バルトが「書くは自動詞か?」で述べているように、書くという行為に先行して、書く主体や内容があらかじめ確定的にあるわけではなく、書く過程を通じて同時並行的にかたちづくられていくのだ。」という箇所である。

前回の投稿で譜面がある楽曲の演奏でも、その場の音響・環境にあわせ、意識上・意識下において膨大な数の情報(演奏)を処理している。そうすることで、楽曲が生き生きとしたものになり、音符という記号は音になり音楽になる、とあった。それは当然即興演奏においても同じである。例の立ち現われを考えてみると、「即興は音響と環境により」生み出され「即興を契機として音響と環境がわかれ」立ち現れてくる。先に引用した箇所から、即興とは「身体(神経や筋肉、骨格)による音響や環境とのミクロな対話・対応の集積・展開がある。(楽器は「道具」として身体と環境の中間に位置づけられよう)。」と、ひとまず定義することが可能である。やはり即興は音響と環境と分かちがたく結びついている。人がいて音響と環境があるところに、即興は生み出され、立ち現れてくるのではないだろうか。「人が生きていること自体が即興である」ということが確かに可能であるように思われる。そのくらいになると「行為主体=主語の地位の希薄化」の実現であるように思える。あらためて「即興」とは譜面の有無しや、事前に準備をしているか、していないか、などという二元論的な考えに収まるも代物ではない。それは聴く側においても同じである。

 

松籟夜話まとめ第31回(ダイアグラム第5回)

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P396より引用。

※ダイアグラムに入って本の文章をほぼ丸々引用しているのでネタバレを気にされる方はご注意を。

 

 動詞化した「音響する」、「環境する」を以上のようにとらえ直すのであれば、当初から動詞としていた「即興する」の意味するところも、当然変化していくことになる。通常そう思い込まれているいるように、ただあらかじめ取り決めや準備なしで演奏すればよい、、、というものでは決してないことは、もはや明らかだろう。
 考えてみればあらかじめ書かれた作品とて、記譜通りに再現すればそれで音楽になるわけではない。記号化された音の連なりでしかないものが音楽として生み出され聴き取られるためには、そこに息を吹き込み、ダイナミズムを付与することが必要となる。音を生き生きと活性化し、それにより演奏それ自体が躍動しようとする「即興化」が必要なのだ。ここで「即興化」とはアドリブ的な譜面にはない抑揚をつけるとうことではない。音響条件をはじめとするその場の環境に楽器や身体をチューニングし、演奏が始まってからもなお、その場にふさわしいミクロな調整を続けることにほかならない。これがアンサンブルであればなおさらだろう。それらの調整のうち、実のところ意識に上るのはほんの一部に過ぎない。身体の感覚・運動は水面下でもっと多くの作業をこなしている。それもまた「即興化」のひとつの様態である。
 そうした既存の枠組みや意味付けから離陸し、「即興」演奏であることを殊更に、果ては唯一の支えとして標榜することからももちろん離れて、音響と環境と身体が連動して生み出す演奏それ自体の力を解き放つことこそが「即興化」することにほかならない。

 

まとめ第29回を書いていて「即興」の動詞化「即興化」を、「聴取の能動化」に置き換えて考えてみることが可能ではないかと書いた。

松籟夜話まとめ第29回(ダイアグラム第4回) - Past<Future

引用元に「音響条件をはじめとするその場の環境に楽器や身体をチューニングし、演奏が始まってからもなお、その場にふさわしいミクロな調整を続けることにほかならない。これがアンサンブルであればなおさらだろう。それらの調整のうち、実のところ意識に上るのはほんの一部に過ぎない。身体の感覚・運動は水面下でもっと多くの作業をこなしている。それもまた「即興化」のひとつの様態である。」と書かれている。このことを聴取の能動性の問題にそのまま置き換えることが可能ではないか。「即興化」のところを「聴取の能動化」としてみてほしい。聴取における「即興化」の様子が立ち現れてくるはずだ。

以前私はレコード(録音物)を聴くことについてこのように記した。

松籟夜話まとめ第26回(ダイアグラム初回) - Past<Future

例えば一枚のレコードを聴くにあたって、発信者であるとか受け手であるという認識すらないのが普通だと思う。大袈裟に書くが「発信する側は絶対的で揺るがない存在である」という無意識の認識を松籟夜話、『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』の根本はそこに風穴を開けることにあるように思う。聴取の能動性とはこの無意識を覚醒させることでもある。

 

レコードを買うという行為は能動的である。買ったレコードを聴くということも能動的な行為である。松籟夜話の聴く態勢として「発音元、発音体を特定しようとしない」「音に名前を付けないで聴く」等々とある。だが、発音元を特定することも、音に名前を付けて聴くことも能動的な聴取に思える。実際《音響・環境・即興》読書会第一回まとめ(耳の枠はずし 《音響・環境・即興》読書会第一回まとめ)に次のようなやり取りがある。

Q5 音を聴いた際に、その音が何の音か、誰がどうやって出しているのか、というように「音の正体」を探る構えを捨てられません。ジル・オーブリー『カイロを聴く』を聴いても、この構えで耳の焦点を様々に合わせ、耳の「触手」が自ずと四方八方に伸びることになります。本書で書かれている「サウンド・マター」的な聴き方に達することが、なかなかできないのですが、どうしたらいいでしょうか?

A5 「煩悩を捨てなさい。音の正体を知りたいと言う煩悩を捨て去るのです。さすれば悟りが開けることでしょう」と答えられればもっともらしいですが(笑)、そういうことではないと思っています。
 「サウンド・マター」的な聴き方というのは、「カエルの声が空間に広がると、それはもう別のものになっている」(本書p.347)というヤツですよね。フランシスコ・ロペスが書いていることですが、それを本書では、カエルの声をカエルという原因/音源から切り離し、空間=音を伝搬させる媒質へと解き放つことと捉えています。実際、我々がふだん音を聴くとは骨伝導とかの場合を除き、そうやって空気の振動を通して聴いているわけです。つまり「サウンド・マター」的な聴き方を、我々はふだんからすでにしていると。後は認識論というか意識の問題になってきます。
 本書で問題にしているのは、ジム・オルークが言う「それがピアノの音だとわかると、もうそれでみんな聴くのをやめてしまう」式の聴き方です。いわば浅い聴き方。私はたまたま質問された方の聴き方を知っていますが、それがピアノの音だとわかっても聴くことをやめず、それはどんなピアノか、どんな部屋か、弾いているのはどんな人か‥‥等々と、どこまでも追いかけるのを止めないという、煩悩と妄想にまみれた聴き方をされています(笑)。そのプロセスをご自分で「耳の触手が四方八方に伸びる」と表現されているわけで、それで全然構わないのではないでしょうか。どうぞこれからも悟りを開かずに聴き続けていただきたいと思います。

 

あらためて松籟夜話、『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』における「聴くことを深める」とはどういうことなのか。聴取という、もともと動詞であるところをさらに「聴取の能動化」としてみた。即興の「即興化」のように。そこを軸に考えてみたい。例の立ち現れで「聴く」ということをさらに動詞化してみると、「聴くは身体と即興により」生み出される。「聴くを契機として身体と即興が分かれ」立ち現われてくる。「聴く」という動詞化のさらに動詞化、どうだろうか。私は動詞化をしてみると、対象のダイナミズム、相互作用の関係が生き生きとしてとらえることができる。(できるようになった。)

「それにより演奏それ自体が躍動しようとする「即興化」が必要なのだ。」と本文にある、これは演奏者のみならず聴取者においても同じことだ。「記号化された音の連なりでしかないものが音楽として生み出され聴き取られるためには、」ともある。聴こえてくる音を記号とし聴くか、生きた音として聴くかは聴く側の「聴取の能動性」の問題であり、さらにいうと「聴取の即興化」であるとしたい。引用文にある、「音響条件をはじめとするその場の環境に楽器や身体をチューニングし、」というこの部分、これは演奏者のみならず、聴き手にも同じことがいえると考えている。これが私の考える「聴取の即興化」である。音を聴くという点においては、演奏者も聴取者も同じである。それが演奏会場であっても録音物であっても変わらない。そして即興するのは身体である。その身体を「身体の即興化」としてみたい。その身体に意識的であるかどうか、という違いが「聴取の能動性」「聴取の即興化」の大きな分岐点であるように思う。本文に「身体の感覚・運動は水面下でもっと多くの作業をこなしている。」とあるようにどんな聴き方でも意識化では、「聴取の即興化」をおこなっている。人間は聞く音を選別しているというやつだ。聞こえているのに聴いていない音がある。これらは聴取における即興=即興化といえるはずだ。とうことは「聴くことを深める」または「深く聴く」とは聴いている音に意識的であるかどうか。また変化する、または変化しない音に反応する身体の即興化が意識上にあるかどうかとしてみたい。あくまでもこれは私個人の一つの見解のようなものである。

10/14読書会第二回ではゲストの藤田康城氏を迎えて「音楽と演劇の能動的受容について―太田省吾とARICAの演劇実践から―」という問題提起に基づく著者(津田・福島・歸山)との対話が行われるそうなので、どういう話になるのか楽しみにしている。参加者の皆さんの意見もぜひ聞いてみたい。

 

結局のところ「聴くことを深める」とは聴く対象と自分がどう関係するか、なのだと思う。その関係性が一方通行なのか、両側通行なのか。両側通行であれば、聴くことに対して能動的といえるだろう。そして本書は「聴くことを深める」ために「何をどう聴くか」ということが600ページに渡り、あれやこれやと手を替え品を替え書かれている。「何を」の部分には、フリー・インプロヴィゼーションやフィールド・レコーディング、民族音楽があてはまるが、必ずしもそれらである必要はない。「どう」の部分が松籟夜話という実践を通じ、本では強力に書かれているが、それは絶対ではない。聴く対象との関係が両側通行であれば、聴くことに対して能動的といえるだろう、と書いたが、この関係を築けたのならば発信者と受信者という構図はなくなる。発信者と受信者もない、とは「聴くことを深める」ということの先の領域なのだろうか。違う気もする。おそらく「聴くことを深める」ということの先は、さらに「聴くことを深める」ということが待っているように思う。

松籟夜話まとめ第30回(ダイアグラム第4回)

あらためてこのブログは、Xに投稿した『松籟夜話plus』in京都へのお誘い、ワード集から加筆・修正を加えたまとめになる。本文からの引用をもとに私の所感のようなものを書く。(最近の投稿は引用していない。)ネタバレもあるので気にされる方はご注意を。『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』を読んで、「ああもよめる、こうもよめる」の一つになれば幸い。ちなみ私は何かの専門家ではないし、専門に学んだわけでもない素人である。間違ったり勘違いしている箇所があると思う、そこはご容赦いただきたい。素人目線だからこその気づきがあれば、と思って書いているので暇つぶし程度に読んでいただければ幸い。そして松籟夜話、『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』に興味を持っていただければこれ以上のことはない。

『音響・環境・即興 松籟夜話――〈耳〉の冒険』‐カンパニー社

 

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P394より引用。
※ダイアグラムに入って本の文章をほぼ丸々引用しているのでネタバレを気にされる方はご注意を。

 

 次いで「環境する」とは、やはり同様に周囲を取り巻くモノや空間、その配置や性質条件が、指標やその他の意味から離陸し、それ自体の力を解き放つこと=「環境化する」ことと考えてみる。浅田彰が「満州や南洋へ進出することによって、近代日本人は初めて「環境」に直面させられたと指摘してあるが、そこでいう「環境」の力、温暖で風も通い、簡素な仕切りで暑さ寒さや風雨を防ぐことのできる、過ごしやすい日本の四季に対し、それとはまったく性質の異なる強烈な浸透力を持つ極寒や酷暑を想像してみればよいだろう。
 「環境」の力を示すもうひとつの事例として、バーナード・ルドルフスキーが『建築家なしの建築』で論じている、その地の気候風土、そこに住まう人々の生活様式、活動内容、伝統文化、さらには調達しやすい素材等の諸条件に基づいて、無名の工匠たちが設計図なしで口伝によりつくりあげる様々なヴァナキュラー(vernacular)建築を、「環境」の力による造形として挙げよう。それは均質な空間を前提としたモダニズム建築に対し、個別の場所に応じた「環境の関数」として住居や施設を作り出すことであり、まさにゲニウス・ロキ(土地の守護神=地霊)の意に沿うことだった。
 なお、ヴァナキュラーという概念については、「地質学的想像力」の項で採りあげているが、モダニズムに対する他の(それ以外の)ポジティブな可能性の提示という点では、ここで挙げたルドルフスキーの建築論が先駆である。にもかかわらず、その後、建築の領域においては、ヴァナキュラーやゲニウス・ロキは盛んに言及こそされるものの、ここで論じたような造形力の源泉というより、むしろ土地にまつわる物語や象徴を建築に散りばめるための引用元へと取り組みが弱体化してきているように思われる。


ヴァナキュラーについて再度P383より引用しておく。

〈ヴァナキュラー〉(vernacular)という言葉、語源的にはラテン語の〈ヴェルナクルス〉(vernaculus)に由来するもので、その意味は「主人の土地に生まれた奴隷」のことをさしていた。しかしこの概念は、いまでは「特定の土地に固有の、その土地の人間のごく普通の表現にねざした」というような意味に転化して、民衆のローカルな芸術的表現や建築様式の技術を示す言葉として流通している。

 

前回の音響の動詞化「音響化」することに続いて環境の動詞化、「環境化する」について。環境の本来持つ力の解放そのものが=環境化へと直接つながっている。(浅田彰の例。)「ヴァナキュラー」も「ゲニウス・ロキ(土地の守護神=地霊)」はどうだろうか。この二つの概念に関しては、概念ということは名詞である。人々の造形力の源泉して、「環境」の力による造形として活かしているのであれば、それは動詞化されている=環境化されていると考えて問題ないと思う。動詞化とは目に見えたり、耳で聴こえたりする力や音だけにしておくのはもったいない。想像力も創造力も、力の源泉であり力そのものだと考えたい。

Xに投稿した際、具体的にいくつかの例をあげてみたので再度書いてみようと思い、過去の投稿を見返したらこんな試みをしていた。
「音響化」の項で、一度「音響」と「沈黙」が分かれ二つながら生成したので、私なりに応用すると「環境化」には、「環境」と「地質(学的想像力)」が分かれて二つながら生成する契機が必要だと。これで環境化がイメージしやすくなった、とあるがどういう考えで書いたのか思い出せない。おそらく地質学的想像力の箇所でヴァナキュラーの概念が紹介されていたからだと思われる。環境をかたちづくる要因としてその土地土地の地質があり、環境と「地質(学的想像力)」地質⇔土地の相互作用を考える。そこから環境と地質⇔土地が二つながらに生成するという発想はありかもしれない。そこからの連想なのだが、その土地土地の植生も環境の環境化ではないだろうか。植生と環境は相互作用にありそうだ。環境が植生をかたちづくり、環境が植生をかたちづくる。環境の力の解放である。

そしてヴァナキャラー建築で思いついた例をあげている。
・沖縄の琉球建築
・屋敷林、屋敷森
・西アフリカの泥建築と呼ばれる家づくり

上記に挙げた例、今現在の環境の変化にあわせて変化し続けているのは間違いない。環境による変化、変化を力の解放=環境化と捉えると、その動きは計り知れないほどダイナミックな現象である。地質学的想像力で、その力を「いまここ」で働いている力と書かれていたが、環境もまさしく「いまここ」で働いている力である。〈音響・環境・即興〉の三つ組の中で、環境はもっとも我々の暮らしにおいて身近に感じることのできる力である。私の家も私の家それ独自のかたちをしている。それは住んでいる土地の環境、住んでいる我々の環境がそうさせている。環境に関しては、「環境」と「地質(学的想像力)」が分かれて二つながら生成する、と最初に書いたが、地質のところを例えば「暮らし」としてみることもできそうだ。そして今更考えついたのだが、もっともピンとくるのはゲニウス・ロキ(土地の守護神=地霊)ではないか。「環境」と「ゲニウス・ロキ(土地の守護神=地霊)」が分かれて二つながら生成する。すると環境が、「周囲を取り巻くモノや空間、その配置や性質条件が、指標やその他の意味から離陸し、それ自体の力を解き」放たれるイメージがすんなりできる。ヴァナキュラーとゲニウス・ロキが「造形力の源泉というより、むしろ土地にまつわる物語や象徴を建築に散りばめるための引用元へと取り組みが弱体化してきているように思われる。」引用元としてしか扱われていないのはもったいないように思う。それこそ「いまここ」であり続けているように思うからだ。

 

最後に。ヴァナキュラー建築はブリコラージュに類似するのではないかと思う。どちらもその場の環境において、周囲にある身近なものを用いて柔軟に対応するという点、そして環境が変化(環境化)しても姿形を自在に変化できるであろう点。そして、「その都度、衝突/遭遇するものへの対応として、異質なもの/他者との共存をブリコラージュ的に受け入れること。」P305より引用。ブリコラージュのところをヴァナキュラーと置き換えることは可能ではないか。あらためてブリコラージュについて本書P355より引用。

ブリコラージュ自体の意味は、理論や設計図に基づいて物を作るエンジニアの思考とは対照的に、その場で手に入るものを寄せ集め、それらの本来の用途とは関係なく部品としてどう利用できるか試行錯誤しながら、当面の必要性に役立つ道具を作ること。クロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』等で人類が古くから持っており、現在も活用している知のあり方として紹介した。

 

京都洛北にある、圓通寺の比叡山借景。
比叡山の眺めを庭に取り込んで景色の一部とするという、人による環境の環境化の実践だと思うのだがどうだろか。

 

松籟夜話まとめ第29回(ダイアグラム第4回)

※ダイアグラムに入って本の文章をほぼ丸々引用しているのでネタバレを気にされる方はご注意を。

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P394より引用。


 そこに(動詞化)意味合いを与えてみる。まず「音響すると」とは、音がラベリングやその他の意味から離陸し、それ自体の力を解き放つこと=「音響化する」ことと考えてみる。
 対談「間 人間存在の核心」における精神科医木村敏と作曲家武満徹のやりとりは、音が「音響化する」ことの機微に触れている。二人は沈黙とは音が犇き合っている状態だという理解を共有した後、次のように語る(主要部分のみ抜粋)。

 

木村 音で言えば、一つの音が鳴ったということで、周りに沈黙を醸し出すような働きがありますよね。非常に立派な音というのは。安っぽい音は、沈黙を醸し出さないと思うんです。
武満 間というのは結局、一つの音に、それを存在せしめる他のすべての音のコンプレクシティ、複雑性を見出していくということでしょう。そしてそれは、音と間というものは別のものではないということです。

 

 音がそれ自体として屹立するためには、音の「原形質」たるざわめき(無数の音の犇き合い)から「音響」と「沈黙」が分かれて二つながら生成する契機が必要なのだ。それにはやはり、他の二項、環境と即興の介在・媒介が欠かせない。楽器の音ではなく、自然音や珍しいガラクタの放つ物音を使ったからといって、あるいは電子音や正弦波を用いたからといって、素材の選択だけにより、それが直ちに(安直に)「音響化する」わけではない。

 

あらためて書くと、音響とは「音響は環境と即興により」生み出されることになる。「音響を契機として環境と即興が分かれ」立ち現われてくることになる。これは音響の「生み出され」「立ち現われ」である。これについてはまとめ第27回を参照に。

松籟夜話まとめ第27回(ダイアグラム第2回) - Past<Future

今回からその先の動詞化である。動詞化については前回を参照に。

松籟夜話まとめ第28回(ダイアグラム第3回) - Past<Future

 

引用先では「沈黙」が裏テーマのような扱いをされている。無音という沈黙があるのではない、このことはこれまでに読んできた。沈黙とは無数の不定形なざわめきの集合体である。沈黙によって呼び覚まされるものごとは多い。木村と武満の発言がとても示唆的に感じる。安易な連想を承知で書くが、鹿おどしや、風鈴が鳴る音に感じるところがあるのは、沈黙という音の犇きがあってこそのように思う。「沈黙とは音が犇き合っている状態」であり、沈黙には音響も含んでしまうのだ。だから「「音響」と「沈黙」が分かれて二つながら生成する契機が必要なのだ。」

その後の「他の二項、環境と即興の介在・媒介が欠かせない。」ここがいまいちピンとこない。そこで介在・媒介を相互作用に置き換えてこうしてみた。「環境と即興を相互に作用させることで音響が音響化する」。そして「音響を契機として環境と即興が分かれ」という立ち現われの状態から「音響を動詞化するために環境と即興が相互に作用し」というふうに。こうすることで、立ち現われの状態から動詞化による「それ自体の力を解き放つこと」をより具体的に私は感じることができるのだがどうだろう。例えば環境を動詞化するのであれば「環境を動詞化するために音響と即興が相互に作用し」というふうにだ。

 

鹿おどしも、風鈴も、音の鳴る仕組みは人による仕掛けではあるが、それでも人の介在は少ない。即興という人間主体による行為はどうか。そこで動詞化の最初に書かれている、即興に対して音響と環境が対等になる必要がある。本文に書かれてあるが、即興が音響と環境と違うのはそもそも人間(主体)のアクション、(そもそも動詞)だからである。即興を音響と環境と対等にするには、主体性をなくす、人間という介在をないようにすることだと考える。どうするか。それは「音をして語らしめる」「音を主語として考える」という即興の音響化ではないだろうか。先の例に習って即興を動詞化してみる。「即興を動詞化するために音響と環境が相互に作用し」となる。」即興がそれ自体の力を解き放つために、音響化するために、音響と環境が相互に作用するというのはイメージしやすいのではないか。音響と環境を相互作用させるのは演奏者であり聴取者である。演奏者と聴取者相互に作用させるのに必要なのは聴取の能動性である。前回書いたように「聴く」は動詞である。やはり聴くという力を解き放つこと、このことはずっとついてまわりそうである。