著者の一人、津田さんの「フォークロアの汀」が更新されています。今回から久高島。久高島といえば松籟夜話を象徴する一枚、「イザイホー」が録音された場所。ぜひ読んでみてください。
『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P326より引用。
耳の眼差しをどこかに向ける。全球状にうっすらと広がっていた注意がある一点を中心に濃密化し、世界を枠付けする。耳の視点と視界がパースペクティブとともに浮かび上がる。松籟夜話の場合は録音を参加者の前方にセットしたスピーカーで聴いているため、再生音は全周三六〇度からではなく、前方からしかない(もちろん反射音や環境音はあるが)。また、参加者がみな同じ音源を同時に聴き、体験を共有しているため、聴くプロセスを一定程度「外化」して眺めることができる。この環境において「耳の視界=聴覚のフレーム」が存在をあらかじめ指摘し、それを意識しながら聴き進めることにより、「聴くこと」をいま・ここにある身体による能動的な行為として浮かび上がらせることができる。
エルンスト・マッハは『感覚の分析』で、ソファに寝そべり右目を閉じて見える世界(左目の視界)を、自身の鼻が視界の右端を画する図解として描き出した。自らの身体の一部は見える世界に含まれており、世界の一部を隠している。同様に視点とフレームがある以上、いま聴いている音は固有の身体の構図に沿ってトリミングされた一部分に過ぎず、世界のすべてではない(障害物の向こう側は見えないとはっきりとわかる視覚とそうではない聴覚の違いはあるが)。
「「耳の視界=聴覚のフレーム」が存在をあらかじめ指摘し、」とは、音源の間に挟み込み言葉のことだろうか。フレームとは眼鏡のフレームのように「枠」と解釈したい。著者の一人福島さんのブログのタイトルは「耳の枠はずし」である。本書では引用箇所の続きにいくつかの事例が紹介されている。再度P326より引用してみる。
フリー・インプロヴィゼーションの記念碑的作品であるデレク・ベイリー『Solo Guitar volume1』(Incus)では不安定なピッキング、ミュート、ハーモニクス、スクラッチ等が生み出す壊れやすく不定形のサウンドが、両足元の二台のヴォリューム・ペダルの操作によりステレオ配置された二台のギターアンプから配合・噴出され、聴覚のフレームを横切り、あるいは端を掠めて錯乱し、たちまち耳の視界の圏外へと脱出して、フレーズの線を描くべき音の結びつきを許さない。
P327にこうもある。
アーティストによる音世界の探求は、こうして「耳の視界」という設えの限界を明らかにする。そこにあることは見ることと聴くことの本来的な差異に他ならない。
「耳の視界=聴覚のフレーム」とは音を聴く我々の耳の仕組みでありそうだ。そしてその可能性と限界について書かれていると思われる。私はデレク・ベイリーの引用した作品を実際に聴いたことがあるが、「両足元の二台のヴォリューム・ペダルの操作によりステレオ配置された二台のギターアンプ」という仕組みで録音されているとは知らなかった。この前提であらためて聴いてみるとずいぶんと違って聴こえるだろう。松籟夜話でかけられる音源全てではないだろうが、敢えて言葉によって「耳の視界=聴覚のフレーム」を指摘することにより、耳の眼差しという聴く態勢を創出するのだ。それは「こうしてください」という指示ではなく、耳の能動性をうながすために挟み込み込まれるイントロダクションのようなものだろう。これは確かに「聴く身体」を標榜する松籟夜話にとっては有効な方法である。参加者それぞれの「聴く身体」は違う、違うが故に「ああもきこえるこうもきこえる」という聴こえの違いが生まれる。そうするにはまず耳を能動的に働かせること、聴く態勢をつくることが必須である。耳の能動性についてこれまで書いてきたが、言葉を挟み込むこによって「「聴くこと」をいま・ここにある身体による能動的な行為として浮かび上がらせることができる。」というある種の手法である。思えば聴く側の耳の能動性ばかり書いてきたが、これはナビゲーター二人の聴取の能動性へと導く仕掛けである。この言葉を誘導とするか、あくまでも導入として扱うのか。言葉をかける方もかけられる方も、言葉の受け取り方によって音の聴こえはかなり違うものになるだろう。
最後に引用した箇所に「「アーティストによる音世界の探求は、こうして「耳の視界」という設えの限界を明らかにする。」とある。音楽が製品になるまでには、基本的に録音、ミックス、マスタリングという工程がある。「耳の視界」とはミックス作業における音の配置が生み出すもので、大雑把に書くと、ミックスとは録音した音をどの位の音量で、どの位置に音を置くか、ということである。(これはステレオ録音のみ、モノラル録音は各楽器の音量差のみである。)まさしくアーティスト側からの「耳の視界=聴覚のフレーム」の創造である。そしてこのアーティストからの「耳の視界=聴覚のフレーム」の提示を、松籟夜話では歸山スピーカーというモノラル・スピーカーによって再定義する。モノラル・スピーカーでは、ステレオ録音の音源であっても再生はモノラルになる。これも松籟夜話側からの「耳の視界=聴覚のフレーム」の提示である。これが可能であるのは、モノラル再生でも有り余るほどに音源の持つ力を発揮させている歸山スピーカーの威力があってこそだ。
デレク・ベイリー『Solo Guitar volume1』聴いてもいまだにわけがわからない、噴出する音に呆然と立ち尽くすだけである。そこに言葉は要らないのではないかと思うが、たくさんの人が様々な表現を尽くして言葉にしようとする怪盤である。








