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YYBY、ダブミキサー井出によるブログ。

松籟夜話まとめ第50回(聴取の能動性-フィールド・レコーディングとワークショップの体験に基づいて第6回)

今週末(10/25)私が参加しているdubバンドYYBYのライブがあります。取り置きございましたら、wareyyby@gmail.comまでお願いいたします。

『This Dub Is Mellow』
@NOON +CAFE
2026.10.25(SUN)
17:00-21:00
前売り:3,000円 当日:3,500( +1drink)
予約特典アリ

■Live 
YYBY/Bagus! with DUB KAZMAN

■DJ
e-mura/NAKAM

■FOOD
錯覚

あらためてこのブログは、Xに投稿した『松籟夜話plus』in京都へのお誘い、ワード集から加筆・修正を加えたまとめになる。本文からの引用をもとに私の所感のようなものを書く。(最近の投稿は引用していない。)ネタバレもあるので気にされる方はご注意を。『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』を読んで、「ああもよめる、こうもよめる」の一つになれば幸い。ちなみ私は何かの専門家ではないし、専門に学んだわけでもない素人である。間違ったり勘違いしている箇所があると思う、そこはご容赦いただきたい。素人目線だからこその気づきがあれば、と思って書いているので暇つぶし程度に読んでいただければ幸い。そして松籟夜話、『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』に興味を持っていただければこれ以上のことはない。

『音響・環境・即興 松籟夜話――〈耳〉の冒険』‐カンパニー社

 

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P458より引用。

 

 ワークショップ「みみをすます」では、「音を聴く」「静けさを聴く」「みみをすます」という三つの段階に分けて、音に対する意識の枠組みを注意して取り除こうとする。「音を聴く」段階では、ふだん周囲の音を聴く時のように、「あれは何の音だろう?」という興味に従って音を聴いていく。この段階では、明確に名付けられる音を中心に聴くことになるだろう。これを仮に「音の図」と呼んでおく。次に、「静けさを聴く」の段階では、「音を聴く」の段階で聴いた「音の図」の背景にあった音、すなわち「音の地」を聴こうとする。近くで話している人の声、通り過ぎる車の音、鳥の声、飛行機といった音は、比較的「音の図」として意識に届いて来やすい。対して、その背景にある、向こうのほうの幹線道路、さっき通り過ぎた飛行機の名残のうなり、遠く波打ち際の潮騒、ビルの向こうの公園の木立のざわめき、といった音は、目立つ音の背景に紛れマスキングされてほとんど意識には上らない。「静けさを聴く」は、こうした音を焦点化しようとするこころみである。
 ワークショップ中に、注意を喚起するために「ほら、あの・・・」と指し示すことがある。たとえば「向こうに飛んでいった鴨の羽音」と名指す。「その背景にあるぼんやりした音」と名指す。そうすることによって、鴨の羽音と、その背景にある音が切り分けられて、別個のものとして知覚されうるというのは、確かなことだ。だが、これでもまだまだ甘い!音を分類して聴くことから、何一つ自由にはなっていないのだから!私が常に音環境学の方法論に疑問と不満を持つのは、こうした明確に名付けられる音を中心に聴くことの外に出ようとしないこと、名付けられる音しか聴こうとしないことに対してだ。名付けられない無数の音があり、音として切り離して認識できないような身体感覚が情動と深く関わっていることは、これまでにも何度も述べてきた。
 次の段階「みみをすます」では、「音の図」「音の地」と区別していた音を、すべて等しく聴こうとする。先ほど述べたような、どこかひとつに焦点化せずに音のテクスチャーを見渡すように聴こうとするやり方だ。音を聴取することが生命活動である以上は、聴こえてくる音に対して常に意味付与していることになる。背後から近づくバイク、右から左にすれすれを走り抜けていく自転車、あなたに呼びかけてくる人の声、それらを瞬時に判断し身の危険をかわしたり、友人の声に笑顔を作って振り向くこともあるだろう。だから、こうした音の「図」と「地」の関係をいったん括弧に入れて、意味を捨象して聴こうとすることは、もともと無理のある想定ではある。ただし、ふだんから意味と無意味を選り分け、「図」と「地」を聴き分けている聴取の枠組みが、曖昧で恣意的なものであること、相対的なものであることに気づくことはできる。そのことが、凝り固まった聴取の枠組みをストレッチし、聴取の自明性を揺さぶる。静寂は、それを感受する意思に基づいて創出することができるものであるということに思い当たることになるだろう。さらに言えば、何の音なのか発生源が明確ではない音とも言えない何か、名付けられない曖昧模糊とした空気の動き、といった記述できないものにこそ、聴くことだけが開示してくる世界の厚みのようなものがあることに気づくのである。ただし、やはりこの「みみをすます」という状態は、辿り着くことのできない彼岸のようなものなのかもしれない。
 

津田さんが開催しているワークショップ、「みみをすます」の実践、という項からの引用である。「みみをすます」で実践されている、「音を聴く」「静けさを聴く」「みみをすます」という三つの段階の説明、そしてその実践から感じた、なんというか、どうしようもなさからくる面白み、みたいなものを感じる。それは!マークが初めて文章にでてきた音環境学の方法論への疑問や不満、「みみをすます」という状態へ辿り着くことへの困難さ(彼岸という言葉が使われている。)が書かれているからだろう。此岸にいる私はこの文章を読んで、ここでいう「みみをすます」こと、「聴くことを深める」ことへの意思を再度固めた。この困難さに直面しているのは、私だけではないんだろうな、という安心感もある。これを書いている最中に何台かの車が通り、鳥が鳴き、犬の吠える音が聴こえた。そして全ての音を同定している自分に気づき、無意識で音を聴き分けているということにあらためて驚く。聴くことを意識すればするほど、音の切り分けははかどってゆく。

 

最初に引用した箇所の前にこんなことが書かれている。(P457より引用)


フィールド・レコーディングをするうちに、多くの人が耳を塞いでしまうような場所-道路工事現場だの家電量販店だの-の中でも平然としていられることに気づき始めた。つまり、「聴き分けられない」「聞き取れない」という状態そのものを受け入れるのだ。
 その一方で、静寂を求めて、まだ春にならない頃の吉野山の奥、西行庵まで登ったこともあった。そこは、確かに静かだった。しばらくその場に佇んで開放感のようなものも味わったと思う。だが、そこは静かで居心地が良いというな場所ではなく、私はだんだん退屈してきた。冬枯れた土手と杉立ちはあらゆる音の響きを吸い取ってしまうようで、やがてうすら寒いようなおそろしい気持ちになったのだ。(中略)
そこでは「図」となるような目立つ音もなく、そうした音の「地」にあるはずの暗騒音も静まり返っていたのである。
 これらの体験を通して考えたことは、次のようなものだ。世の中には、うるさい音と静かな音があるのではない。音数が多いからうるさく、音数が少ないから静かだというわけでもない。つまり喧騒と静寂があるのではない。これらは聴くものの心理や知覚や意識の状態によって左右されながらも、しかし単なる「心の持ちよう」として片付けられるものでもない。その音がどう聴こえるかということには、聴取の能動性の問題が関わっているはずだ。


引用箇所の家電量販店での「図」が溢れかえっている状態、西行庵での「図」も「地」も暗騒音すらない状態。このどちらもオールオーヴァーな状態であるといえないだろうか。「図」が溢れかえっている家電量販店はわかりやすいとして、「図」も「地」もない状態は、どこにも焦点を合わせるところが無い、無焦点のオールオーヴァーな状態と言えるだろう。このオールオーヴァーな状態を最初の引用文にある、「「図」と「地」を聴き分けている聴取の枠組みが、曖昧で恣意的なものであること、相対的なものであることに気づくことはできる。」と書かれてある内容に近いのではないかと考えた。「気づく」ということが重要であり、オールオーヴァーを含む耳の眼差しの三相とは、「耳の眼差しが通常のやり方では通常のやり方では適用しない特例的なケース」である。聴取の困難さは耳を能動的にさせる。普段の暮らしのあちこちに〈暗騒音〉〈オールオーヴァー〉〈地質学的想像力〉を感受できる状態に実はあるのだが、単に意識に上っていない、ということもある。実は深淵となる裂け目・割れ目を易々と跨ぎ越していることも日常的にあることだ。耳の眼差しの三相を駆使する状態を自らつくることも可能である。『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』に掲載されている音源がそのための格好のプレイリストとなる。自ら耳の眼差しの通用しない危機的な状況に晒すことで「そのことが、凝り固まった聴取の枠組みをストレッチし、聴取の自明性を揺さぶる。」ということはできそうだ。松籟夜話の場において、強度の高い音にいきなりぶん殴られる、ということも効果は高そうだ。前回書いた「聴取の深化には、音の裸形が露わになるような認識の変化が必要だ。」ということははっきりしている。ワークショップ「みみをすます」はその試みであるのだろう。

 


ワークショップ「みみをすます」が11/14(土)に開催。

 

松籟夜話まとめ第49回(聴取の能動性-フィールド・レコーディングとワークショップの体験に基づいて第5回、第4回の続き)

福島さんのブログ「耳の枠はずし」に10/11に開催、松籟夜話revisited第二夜「オールオーヴァー」のレポートがあがっております。まだ読んでいないのですが共有しておきます。

耳の枠はずし 松籟夜話revisited第二夜「オールオーヴァー」来場御礼

 

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P455より引用。

 

 ふだん私達が聴いている音は、自分が聴きたいと思って焦点化した音である。私たちは常にこれは何の音であるか同定して聴いている。知識がつけばつくほど、その音が何から発生したものであるか同定して聴き分けられるようになる。だがそれは、同定できない音は聴かないということでもある。野鳥に詳しく珍しい鳥の声を探すのに夢中になっている人は、谷川のせせらぎにもカジカの声にもまるで意識をむけないか、鳥の声を聴き分けるのに邪魔なノイズとして聴くことになるだろう。何の音かという同定への関心は、一方で常に何の音か分からない音への無関心を生み出す。あるいは逆に、何の音か同定できればそれ以上は聴かなくなるということでもある。(中略)だがこれまで何度も見てきたように、「それが何の音かわかる」ことは重要ではない。その音に何らかの情動を聴き取ることは、その音の正体がわかることとは別のことなのだ。聴取の深化には、音の裸形が露わになるような認識の変化が必要だ。それが、ここで言う「聴取の能動性」である。
 重要なのは、その音が何の音かということではない。木漏れ日に魅入られることと同様に、音の消息に魅入られるということがある。それはその音の発生源を想像し分析し理解することではない。音の発生源はいつもかならず突き止められるものばかりではない。そうではなく、むしろ発生源から切り離されて変化していく音そのものの変化を辿ってゆく体験である。音は空中に解き放たれ、そこで様々なほかの音と入り混じって反射し位相を変え、やがて暗騒音の中に溶け込み還ってゆく。その音の消息に感応すること。音の変化を聴くとともに、その場所自体が持つ調子(トーン)を聴き取ることで、聴くことだけが開示してみせる世界の相貌が立ち現われるのだ。あたかも、ゆらゆらと揺れ動き生成変化し続ける樹々の葉と陽光が生み出す幻惑的なカメラ・オブスキュアの上映に魅入られ、思いがけず裸形の世界を垣間見て動けなくなってしまうように。このとき、音を聴き取るということは受動的な行為ではなく、そのまま音の情動に共鳴することや演奏することと同様に、極めて能動的な行為となる。


引用文を書いていて思ったことがある。「ふだん私達が聴いている音は、自分が聴きたいと思って焦点化した音である。私たちは常にこれは何の音であるか同定して聴いている。知識がつけばつくほど、その音が何から発生したものであるか同定して聴き分けられるようになる。」ということに関して。ここで書かれていることは、一般的に言われる聴くことが深まるということではないか。例えば、このサックスは誰それが吹いている、このフレーズがすごい・・・みたいなことは音楽を語る際の基本的なことではないか。ただ松籟夜話、『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』の目指すべきところはそこではない。音が持つ本質、聴くことの深みへと向かっていくということがよくわかる。聴取を深化させるためにはその音自体が持つ情動を聴き取るという「聴取の能動性」である。
引用箇所の後半部分、音の消息に魅入られる、という部分について。この部分では音を発生源から切り離された音自身の音の振る舞いを聴くこと。音が放たれた先で様々に変化する音の消息について、暗騒音の中に還ってゆくということ。(まさしく音の振る舞い)音が発せられ消えてゆくという、生成、変化、消滅を音という現象は常に繰り返している。この途方もなさを思うと、それが何の音であるか、誰が出した音であるのかは、さして重要なことではないように思える。これはフィールド・レコーディングの聴取のみに言えることにあらず。音の振る舞い、そして音の消息に感応するということは、どんな音に対しても、どんな音楽に対しても同じことである。そうするためのヒントがここにはある。音それ自体の振る舞い、消息に耳を傾けること。音の情動を聴き取るとは、音の生成、変化、消滅を聴き遂げること、といえるのではないだろうか。

一方で発せられた音を何であるかを同定しない、ということはとても困難であるとも思う。音だけではなくあらゆる物事を人は同定しカテゴライズして暮らしている。例えば妻。一人の人間としてというよりも、私の妻というカテゴライズがあり、妻が持つ様々な情報を共有している。そこを全部無くしてしまうと妻は妻でなくなる。今使っているコップだってそうである。この同定してカテゴライズするということは、必要からそうしている部分も多々ある。それは無意識のうちにおこなわれていることであり、抗い難い欲望のようなものかもしれない。音を選び聴き取る人間の能力は修練の賜物、と本書に書かれていた。その際、私はその修練をした覚えはないと書いた。それはそうできるようになる必要があったのだ、言葉を覚えて話す、歩くことができるようになるのと近いと思われる。「同定できない音は聴かない」「同定できればそれ以上は聴かなくなる」というサイクルを脱するには「聴取の深化には、音の裸形が露わになるような認識の変化が必要だ。」

 

私はアルト・サックスとテナー・サックスの音を聴き分けることができない。そんな状態なのでサックスが二人いたら、誰がどのフレーズを吹いているか聴き分けることなどとてもできない。アルト・サックスとテナー・サックスの音は聴き分けたいのだが、、、何かコツがあれば教えてほしい。

 

松籟夜話まとめ第48回(聴取の能動性-フィールド・レコーディングとワークショップの体験に基づいて第4回)

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P454より引用。

 

 彼がここで言おうとしているのは(スティルライフ『夜のカタログ』に寄せて書かれたAmephoneのテキスト。本書で読んでもらいたい。)、音を聴くということは、その場の地形の成り立ちまで含めて瞬時に「わかる」ことである、ということだ。このことは「地質学的想像力」(第5章)とも響き合う。フィールド・レコーディングを聴き取るということは、そこに現れた音の消息を、その場所が持つトーン(調子)や地形の成り立ちの生成変化する様を聴き取るといことにほかならない。このことは決して特殊な能力ではなく、音を聴き取ることを通して世界の成り立ちが直観的に把握されるような、誰にでもあるはずの体験である。
 ふだんは気にも留めないような現象、白い壁に木々の影がゆらゆらと映り揺れ動く様に心を奪われ、立ち尽くすことがある。よく観察してみると、葉と葉の隙間から差し込む光がピンボール・カメラのレンズの原理でさらに遠くの木の葉の影を逆さに投影していることが見えてきたりする。それらはゆらゆらと風に揺れ動きながら一瞬たりとも留まらず生成変化し続ける。このことの不思議に魅入られたまま、白い壁の前に立ったまま動けなくなる。こうした体験は、ふだん見慣れた世界の表情が何かのきっかけで融解し、裸形の世界の相貌が立ち現われてきたということなのだ。なるほど、そこに見えているのは白い壁と、そこに陽の光に照らし出された木々の影が投影されたものにすぎない。白い壁はモルタルで、その前に立つ数本の紅葉樹の若葉が幾重にも重なって立体的に遠近を形成しており、先ほど述べたようなカメラ・オブスキュアが成り立っている。そのように分析して、目の前に現れている美しい現象の仕組みを理解し、面白いなと思う。しかし、その揺れ動く様に幻惑され魅入られるように注視するとき、木漏れ日の消息をひとつの音楽として、その情動を聴き取る能動的な体験となるのである。あたかも、山の中でポンと手を打った音が、木立に吸い込まれ、谷底から稜線まで駆け上がり、落ち葉の積もった斜面に反射し、跳ね返ってきた木霊と戯れながらつむじを巻いて空へと吸い込まれていく消息を耳の眼差しが追い続けるように。


「フィールド・レコーディングを聴き取るということは、そこに現れた音の消息を、その場所が持つトーン(調子)や地形の成り立ちの生成変化する様を聴き取るといことにほかならない。」
フィールド・レコーディングの聴取における機微、繊細さ、ダイナミックさがよく表現されている文章だ。その後に続いている木々の影の様子の描写が素敵である、とても美しい文章だと思う。物事は常に生成し変化している、その多くは気づかない微妙なものだ。ただ我々の営みの中で確実にそれはある。フィールド・レコーディングを聴き取るということはふとした微妙さに気づくということ、気づいてしまうということ。それは「裸形の世界の相貌が立ち現われてきたということなのだ。」録音するという行為は音を定着させる、または固定化する、という側面も確かにある、だが録音された音は再生されることによって何度でも生成し変化し続けると思うと楽しくなる。それは聴き尽くせない豊かさに向かう聴取における能動性の可能性が録音物には宿っていると私は思う。物事がおこっている現場だけが絶対唯一のものでないことはこれはまでに書いてきた。録音現場から外化することで聴こえてくる音があるはずだ。録音された音には何度でも繰り返し聴くことができ、その度に浮き彫りになる聴こえの違い、というのは松籟夜話の基本である。


フィールド・レコーディングは聴こえてくる音に耳を傾けるのみにあらず、録音された場所の地形、その場所が持つ調子(トーン)を感じ取ること。地形・調子(トーン)を感じること、場所の気配を感じること、とでもいえるだろうか。それはたとえその場所に行ったことがなくても、身体感覚が知っているかもしれない。知らなくても「直観的に把握される」ということは不思議なことではない。感じ取る、ということは聴くことのみならず普段の暮らしで無意識でおこなっているように思うのだ。人の気持ちを感じ取ることや、季節の変化を感じ取ること。場所それぞれのトーン(調子)はそもそも目に見えない、だから感じ取る。録音された音から感じ取る、それは意識せずとも実は感じていることではないだろうか。録音場所の地質学的想像力である。目の前の音(録音対象)を聴いている耳は、その背後で鳴っている音も聴いている。それが意識に上るか上らないかの違い。聞こえているのの聴いていないというのは人の耳の性である。フィールドをレコーディングするとは対象の場所も含めて録音するということであり、その録音を聴くということはその場所を聴くということである。剥いて剥いて剥いて野生の感覚を取り戻そう。「裸形の世界の相貌」を裸形の身体で聴くのだ。膨大な音の情動が聴こえるはずだ。

 

微妙という言葉が仏教から生まれた言葉だということを知らなかった、、、

第104話 微妙(びみょう・みみょう) – 耕雲寺

 

 

松籟夜話まとめ第47回(聴取の能動性-フィールド・レコーディングとワークショップの体験に基づいて第3回)

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P452より引用。

 

たとえば二〇一六年の夏の終わりに帯広郊外で録音した音源を聴き返す。(中略)
そうした湿度や温度や風圧の総体、周囲の大気の様子を、皮膚全体で感じ取る。これは聴覚体験である以上に空気を感じる全身的な体験であり、極めて情動的な体験だ。録音された音を聴き返すときに、この全身体的な感覚をありありと呼び覚ますことができる。魚類が浮き袋やエラや側線によって、水圧や周囲の水の動きを知り、遡上するべき河を認識するように。
 あるいはまた、津田貴司と笹島裕樹のユニット「スティルライフ」の活動では、アルバム『夜のカタログ』制作に際して膨大な量のフィールド・レコーディングを深夜に行なった。(中略)
身体の中に折りたたまれていた記憶がするするとほどけて開かれていくように、その体験は、聴覚や嗅覚や触覚を統合したものというよりも、まずは身体感覚という切り分けられない総体が闇をすでに知っていたようであった。
 このように身体感覚がその体験全体を補完することがある。実のところ、音は気温や湿度や気圧などの皮膚感覚ときれいに切り分けられ知覚されるものではない。遠近法における絶対者の視点から見通された世界のように、明晰な距離や方向をもって音が配置されているわけでもない。野外の音の遠さ近さの感覚は、遠近法というよりもむしろ「距離感のなさ」「方向の曖昧さ」と言ったほうが正確だろう。名前の付けられない、何の音かもわからない、静的に捉えられない、暗騒音とも言えないような、霧や霞のような響きや鳴り、空気の動きや震えの総体。それらは自身の存在を深く浸してその場全体がざわめくような体験なのであり、切り分けて名前をつけマッピングすることはナンセンスだ。音の全体性を聴くことは、身体の感覚を紐解くことであり、自分自身の全存在を丸ごと浸しているこの世界の成り立ち、自分自身の生の成り立ちに関わってくる。

 

「音の全体性」とは鳴った音だけではなく、音をかたちづくる地形、空気、湿度、温度等のその音が鳴った環境や条件すべてと考えてみたい。発せられた音そのものが耳に聴こえてくるわけではない。そこには聴く側の環境・条件ももちろん含まれる。音はそれらの要素を含んで鼓膜を振動させ聴こえてくるものである、と考えると数多くの情報を含んでいることがわかる。そして耳だけが音を感知しているのではない、実は耳では聴こえないが、その他の器官や身体は感知している音がそれなりにあるのではないかと思った。名前の付けられない音、名前の無い音。野生の音。身体感覚が聴いているけれども耳には聴こえない音。聴こえない振動。それを考えると「音の全体性を聴くことは、身体の感覚を紐解くことであり、自分自身の全存在を丸ごと浸しているこの世界の成り立ち、自分自身の生の成り立ちに関わってくる。」という後半の部分が決して大袈裟な表現ではないことがよくわかる。前回書いたマルク・ピシュラン『Nuit』で録音したものとは、音の全体性とそれを聴く身体感覚なのかもしれない。

 

中略した箇所に深夜のフィールド・レコーディングの体験が書かれてある。(P452より引用)

月もなく雲に覆われて星明かりすらもなく、手元の明かりを消してしばらくしても、目が慣れてあたりの様子がおぼろげにに見えてくるということもない。代わりに聴覚や嗅覚、皮膚感覚といったものが全身体的に呼び覚まされ鋭敏になるような感覚である。脇に深い水路がある畦道のようなところを歩いていても、足を踏み外す心配がないほどには足元の状態が把握できている。少し離れた藪の中から鹿が様子を伺っているのがわかるのだ。


その後に「身体感覚という切り分けられない総体が闇をすでに知っていたようであった。」と続く。これは視覚をふさいたら音をよく聴くことができるか、ということを以前書いたがそれとは違うように思う。目を開けていても見えないという、身体の危機的状況がここでいう全身体的な感覚を呼び覚ましているのではないか。それは野生的な身体感覚であり、全身体が感覚している。目隠しでだけではそこまでの身体感覚を得るのは難しいだろう。私自身このような暗闇を体験したことがないが、この状況において、視覚が弱まり、嗅覚・聴覚・皮膚感覚の感覚で特に鋭敏になっている感覚はあるのだろうか。それともどの感覚にも差がないような、全身体的な感覚なのだろうか。

「身体感覚という切り分けられない総体が闇をすでに知っていたようであった。」ということが書かれている、野生的や本能的といった身体感覚だといって差し支えないと思うが、もう一つ思いあたることがある。マルク・ピシュラン『Nuit』に書かれた文章で「夜が夜の音を聴いている。」という箇所がある。(P452)これを読んでいて想起されたのが呼吸である。呼吸が合うや、呼吸を合わせるということがある。何か共同で行動したり作業したりする時などに使われる表現である。引用先の深夜のフィールド・レコーディング、夜に身を浸しているうちに、夜がする呼吸とそこにいる人も他の動物も植物も、夜と呼吸が合ってくるのではないのかと想像した。それぞれの呼吸の速度がもちろんあるのだが、それこそ呼吸の全体性とでもいえるかもしれないもの。全体の一部に呼吸が合ってくるようになり「脇に深い水路がある畦道のようなところを歩いていても、足を踏み外す心配がないほどには足元の状態が把握できている。少し離れた藪の中から鹿が様子を伺っているのがわかるのだ。」ということが可能になる。野生的な身体感覚が呼び覚まされるのは、呼吸による部分もあるのではないだろうか。遠い過去の記憶から強烈ないまここまで、呼吸が知っていることは膨大である。息をするとは生きることであるのだから。

 

 

松籟夜話まとめ第46回(聴取の能動性-フィールド・レコーディングとワークショップの体験に基づいて第2回)

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P450より引用。

 

ジル・オーブリー『Les écoutis le caire』を聴いてみよう。(中略)
ここで聴こえてくるのは、内視鏡のようなもので覗き見(いや、覗き聴きか)するかのような微視的な耳の眼差しによる、何の音かすぐに同定できない霞がかった音であり、ほとんどが音の発生源から切り離されて筒状の空間の中で共鳴したかのような定在波を持った綿ぼこりのような暗騒音の塊である。タイトルどおり、これはカイロでフィールド・レコーディングした音を構成したものであろうが、カイロの観光名所のサウンドスケープを絵葉書的にわかりやすくマッピングしたものではないし、もちろんフィールド・レコーディング素材をもとに音響加工して実験音楽を仕立て上げたものではない。大都市の生活の裏側を白日のもとに晒すのでもなく、名付けにくい音、何の音か発生源を同定しづらい音、つまり無名の音ばかりが周到に選ばれ収録されているのであり、そうした音に焦点を当てることで、「カイロを聴く」ということだけが開示してくるカイロという都市の裸形の姿を切り取って見せようとしたのだ。
 ミシェル・ドネダと行動をともにして『Montagne noire』の録音を担当したマルク・ピシュランの『Nuit』を聴いてみよう。ここに収められているのは一四分弱の一トラックのみであり、「care postale sonore」(音のポストカード)」と言っても、どこか観光名所の音を絵葉書的に切り取ってきたようなものではない。(中略)ではいったいマルク・ピシュランは何を録音して聴かせようとしたのか。夜の静謐さ、と言っても、それでは何の説明にもならないだろう。大気の動きや気圧の変化によって感じる空気のボリュウムのようなもの、ある場所に漂い淀む音の定常波のようなもの、人の気配が消え、夜に身を浸した時に皮膚全体で感じられる周囲の境界が消えてしまうような感覚。音というよりも、そうした身体感覚のようなもの。解説がないため録音時の状況は音だけから察するしかないが、その録音の現場にミシェル・ドネダもいて、サックスを吹かず黙って夜に身を浸し、ともに耳を澄ましていると想像するとたのしい。ミシェル・ドネダがそうしているように、深く夜の闇に沈潜し、木々の梢を透かして夜空のまばたきを聴く。夜が夜の音を聴いている。


ジル・オーブリー『Les écoutis le caire』、マルク・ピシュラン『Nuit』ともに、所謂フィールド・レコーディングの対象になる音を録音していない。例えばこの野鳥の鳴き声を録音したい、といった明確な対象を持っていない。持っていない、というよりも、対象がもっと大きいということがいえる。それはジル・オーブリーにとってはカイロの街である。マルク・ピシュランの場合は夜であり、それこそ「名付けにくい音、何の音か発生源を同定しづらい音」である。再度書くが両者ともに、明確な録音対象を持たない、自身が存在しているその「場所」をまるごと録音しているのが特徴である。まさしく言葉を通りの「フィールド・レコーディング」である。ここに定在波・定常波という言葉が使われている。著者である津田さん連載「フォークロア」の汀でもよく出てくる言葉である。どういう意味か。フォークロアの汀(1)「神女のための白い馬」より引用してみる。

フォークロアの汀(1)「 神女のための白い馬」 津田貴司|やまかわうみweb

 

「それは音の風景というような生易しいものではなく、逃れようもなくそこに住まうあらゆる存在を深々と浸して、共鳴し、共振し、うちふるえながら、この土地の調子(トーン)を形成している。」

 

土地に対する畏怖の念がある。なんだか禍々しさというか深淵というか、そういった暗さを私は感じる。それは逃れようのない土地の調子(トーン)という呪縛のように思える。人間が踏みしめている地面は何気ない存在であるが、人間が誕生する遥か以前から存在している。たとえコンクリートで舗装されていようとも。そこには悠久といえるほどの年月の積み重ねがあり、「地質学的想像力」でいう、痕跡/刻印、すなわち褶曲/隆起/沈降/断層/節理等から爆発/溶解/噴出/発砕/衝突等の力のドラマからそれぞれの土地が生まれている。そして人はその力のドラマの渦中で暮らしてきた。そこにも当然、自然との人間との痕跡/刻印の力のドラマがある。それは決して明るく楽しい歴史ではなく、仄暗い悲しみ歴史である。ここでいうドラマがまた続いていることを思うとそう感じずにはいられない。このことを考えると、私の暮らす京都はなんというか、ずっしりとした重みがある。

ジル・オーブリー、マルク・ピシュランが定在波のことに意識的だったかどうかはわからないが、結局彼等の録音したものが何かというと、「土地の調子(トーン)を形成している」定在波ではないだろうか。それこそカイロの街の名前のつかない暮らしの音は定在波の一種となるだろうし、マルク・ピシュランの録音は身体感覚が感じる音というよりも、その場所を浸している定在波に身を浸しているうちに自身も夜の一部になってしまったのだろう。この定在波は録音対象が明確なフィールド・レコーディングにも意識せずとも録音される。その音が暗騒音のように聴こえなくてもだ。野鳥を録音したとする、録音した野鳥の暮らしがある、その暮らしの背景は真っ白なキャンバスではない。その鳥が存在しているのがどんな場所であっても、そこには痕跡/刻印の力がもたらす地質のドラマがあり、逃れることのできない定在波がその場を浸している。フィールド・レコーディングとは、狙った対象の音を録ること、そしてその場所を録ることでもある。録るということは聴くということである。その耳が聴くのは狙った対象の音なのか、対象の音の存在する場所も含めた音なのか。耳の眼差しの向かう先が問われているのではないだろうか。そして何を聴くか・聴いているかということは、自身の裡なる声との対話であるようにも思う。

 

京都は大原にある寂光院。その名も汀の桜。どういった由来、意味があるのだろうか。

 

松籟夜話まとめ第45回(聴取の能動性-フィールド・レコーディングとワークショップの体験に基づいて)

『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P448より引用。

 

 身の回りに溢れる様々な音の情動を聴き取るとはどういうことだろうか。フィールド・レコーディングを聴き取るとはどういうことか。いくつかの喩え話を織り交ぜながら考えていくことにしよう。
 たくさんの鳥が鳴いている様子を録音したものは、野鳥に興味のない人にとっては単にたくさんの鳥が鳴いているにすぎないが、少しでも関心のある人なら、そこにヒヨドリが鳴いている、ウグイスが鳴いている、ということは判別できるだろう。さらに詳しい人なら、(中略)
このように、その音を切り分け聴き分けることには、ある種の訓練や知識が必要である。ただし、ここで重要なのは、野鳥マニアになればよりよく聴くことができるようになる、わけではない。むしろ、そうしたマニアックな聴取は聴くことを深めることを妨げることになるということは急いで強調しておく必要があるだろう。録音された音を仔細に切り分け聴き分けられたところで、音の情動を聴き取ることができているかどうかはまた別の問題であるからだ。ここでやりたいことは、マッピングされた音の構造を理解することではない。そこに聴こえている音の情動を聴き取るというのは、まったく別の事柄なのだ。
(中略、今度はフリー・ジャズの喩え)
混沌とした音塊に初めて触れた瞬間に、演奏に含まれる熱気のようなものが伝わり、何か胸が締め付けられるような気持ちになることがある。これは初めは混沌としているだけのように聴こえた音が、聴き慣れていくにしたがって個別にどのような動きをしているかがわかり、楽理の上でどのようなすごいことが行われているか判断できるようになる、ということではまったくない。音の情動に感応することは、リズム・メロディ・ハーモニーを理解することよりももっと身体的で野生的な、音楽を聴くということの根源にあるものだ。こうした震えが身体に伝わり、心揺さぶられる原初的な体験は、フィールド・レコーディングを聴く上でも同じことだ。

 

引用先の前に書かれた文章がとても美しいのでぜひ本で読んでみてほしい。ここでは音、音楽から何をどう聴くのか、というかなり根源的な問いであり、それぞれの聴く態勢が問われているように思う。そこで「音の情動」がキーワードになっている。音の情動とはいったい何なのか。この後にこうある。(P449、450より引用)

 

あたかも自然という全体性が神のように「秩序と調和」を司っており、その神が指揮して様々な生物が絶妙なハーモニーを奏でていると考えるのは、なんとも牧歌的な自然讃歌ではないか。このように自然や生態系を神秘化する発想に対して距離を置く必要があるだろう。「フィールド・レコーディングをオーケストラのようなものとして聴くこと」は、ここで言おうとしている「フィールド・レコーディングを聴き取る」ことではない。
 さらにもうひとつ言っておかなければいけないことがある。ここでは、フィールド・レコーディングを、通常の音楽的イディオムによらないある種の実験音楽のようなものとして受容することとは異なることを言おうとしている、ということだ。(中略)
ここで我々が考えていきたいのは、フィールド・レコーディングをすべてそういうものとして、つまり現代音楽や実験的なポピュラー・ミュージックの一つのジャンルのようなものとして、その音楽としての出来不出来を評価し論考するのではないということだ。「フィールド・レコーディングを聴き取ること」を「フィールド・レコーディングを実験音楽のようなものとして聴くこと」と同じこととして語るわけにはいかない。ここで探っていきたいのは、フィールド・レコーディングを何らかの音楽との類似で表層的にエステティックに聴くことではない。
 以上のように、フィールド・レコーディングを既成の音楽との比喩や類比で語ることには陥穽がある。そうではなく、フィールド・レコーディングを聴くことを下支えしている「音の情動を聴き取ること」に、どのように関わっているか、ということについて、これから考えていきたいのである。「フィールド・レコーディングを聴き取る」とは、どういうことなのか。いくつかの音源や言葉を手がかりにして紐解いていこう。


私は音の音楽の、何を聴いているのかを問われれば、答えは明確にある。何を、とは少し違うかもしれないが、それは聴いたことない音・音楽に出会いたい、というものだ。というわけで本書の目的である、聴くことを深める、ということとは違うのだか、音を聴くことに違いはない。そのなかで聴くことを深めるたいと思っている。
今回キーワードになっている音の情動について考えてみたい。情動という言葉を普段使わないなと思い、辞書で調べてみたところ次のような意味がでてきた。
1.一般的に感情をさす。
2.感情のうち、ふいに一時的に引き起こされた、怒り、恐れ、喜び、悲しみをいう。
上記の訳から考えて音の情動とは、音の持つ感情といえそうだ。ただそれだけではここで書かれている内容とはまだ遠いように思う。私は以前このまとめ集第41回(松籟夜話まとめ第41回(録音という汲み尽くせないもの-ドキュメンタリー映画との比較において第四回) - Past<Future)で次のように書いた。「音という現象自体に良いも悪いもない、音は音の振る舞いをしているところに人間が価値を与えることによって良し悪しが生じる。」要は音の持つ意味や背景を脱ぎ捨てて、音を音として聴く。ということで、ここにも書いてある、音の振る舞いそれ自身を見つめる、ということであったり、音を主語として考える。というように、これまで何度か書かれてあることに近いように思う。ただ情動が感情を表しているように、そこから一歩踏み込んだ先のことではないだろか。音それ自体を聴いて感じること、ここではフィールド・レコーディング、それ自体を聴いて何を感じるかということだ。そこにはこの鳥の種類は何であるという発音元の特定や、フィールド・レコーディングを違うジャンルと結び付けて聴取するということを避ける、ということがある。それは音の持つ意味や背景を脱ぎ捨てることができないと、音の情動それ自体を聴くことはできないように思う。音という現象それ自体を聴き取り情動を感じ取ることだ。このことは「身体的で野生的な、音楽を聴くということの根源にあるものだ。」

1976年の野鳥のフィールド・レコーディング。すごくいい。私自身野鳥に興味は無い。何を聴いているかといえば、馬鹿みたいな答えだが録音を聴いている。

 

一つ疑問に思ったことがある。フリー・インプロヴィゼーションとフィールド・レコーディングをひとつながりのものとして聴く、というテーマはどうなるのか、と考えた。これに関しては考え直してみると「ひとつながりのもの」であって、先の引用先にある、例えば「実験音楽の一種として捉える」といったように、あるイディオムに回収してしまう、といったこととは異なる。つながりとは、何かを同定してしまうこととは違う。フィールド・レコーディングが何故「フィールド・レコーディングをオーケストラのようなものとして聴くこと」のように考えられるのか。フィールド・レコーディングで録音される多くの音が、所謂楽音であったり楽器の音ではない。私自身もよくするが、それは楽音ではない音を、馴染みのある音との類似を探し、馴染みのある方へと回収してしまうということではないだろか。カエルの鳴き声を電子音のようだという例えをよく見かけるし、私自身そう思う。ただここではその考えは捨てて、カエルの鳴く音の持つ情動、カエルの鳴く音ということすらも脱ぎ捨て、音それ自体に耳の眼差しを向けることによって、その音自体の音の振る舞いを聴くということだ。「フィールド・レコーディングを既成の音楽との比喩や類比で語ることには陥穽がある。」とはそういうことのように思う。比喩や類似を探してしまうとそれ自体からは遠ざかってしまうのかもしれない。


「音の情動に感応することは、リズム・メロディ・ハーモニーを理解することよりももっと身体的で野生的な、音楽を聴くということの根源にあるものだ。」感応する音、私にはメロディカ(鍵盤ハーモニカ)とスライド・ギターがある。この二つの音が聴こえただけで恍惚とした気持ちになる。楽器の同定はしているし、きっかけになったのは写真にあげている奏者二人の演奏ではある。が、メロディカの音、スライド・ギターの音がどんな状況で聴こえても私はその音に感応する。と、書いてはみたものの、ここでいう音の情動とは違うかもしれないし、この感覚を言葉にするのは難しい。(それこそ身体的な感覚である。)

 

松籟夜話まとめ第44回(録音という汲み尽くせないもの-ドキュメンタリー映画との比較において最終回)

松籟夜話のインスタグラムが開設されたそうです、こちらでも松籟夜話のお知らせがあるようなのでフォローしてみてください。

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『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P445より引用。

 

 こうして見てくると、録音物に耳を傾けることの豊かさとは、現実がまるでそこに再現されているかのようにありありと感じられることでもなく、あるいは録音者の意図が隅々まで行き渡り一分の隙もなく録音物として表現されていることでもなく、また「現場」で体験するしかない白熱や高揚を、せめてその記録だけでも聴いて追体験してみようということでもない。むしろ、そこに現れた音そのものの振る舞いを、ただ音そのものの振る舞いとして観察する時の「汲み尽くせなさ」であり、その汲み尽くせない余剰としての豊かさであることがわかるだろう。
 音をもっと聴こうとして耳をそばだてるとき、耳の触手は聴くことだけが開示してみせる世界のざわめきに触れている。聴覚は、俯瞰し距離を持って世界を眺め冷静に判断する権力的な視覚とは違って、身体を浸してあるこの世界の振動に直に触れ、ともに震え蠢きながら、内触覚的な感覚とも繋がって身体の奥深くから野生を呼び覚ます。それは古くて新しい水の記憶を辿ることにも似て、空間的な意味での距離の遠さだけではなく、過去や未来といった時間的な意味での遠さをも聴こうとするものである。だからこそ、聴くこととは何かの兆しを読み取る行為でもあった。聴くことは古くから沈滞した場所の特徴を察知することでもあった。そうした意味で、野外環境録音には何度聴いても発見があるのであり、民俗祭祀や即興演奏の録音は単なる記録として以上の気づきに満ちているのであり、「現地」での体験を表現すべく加工された音響には遠い旅の体験のような驚きに溢れているのである。このことを言い表わすために、たびたび「野生」「野生的聴取」という言葉を使った。ここでいう「野生」「野生的聴取」とは、つまりは全身的な作用としての「聴く」ということであり、その対象は音に限るものではない。単に「ことさら鋭敏な聴覚」という意味ではないことは改めて強調しておきたい。
 こうして考えてきた事柄は、「地質学的想像力」「オールオーヴァー」「暗騒音」といったほかのキーワードとも呼応し、響き合いながら、フィールド・レコーディングという地点においても、「音響」「環境」「即興」が風呂敷の結び目のように出会うのである。


引用元の「「現地」での体験を表現すべく加工された音響には遠い旅の体験のような驚きに溢れているのである。」この部分を書きながら強烈に思った。ブライアン・ジョーンズ『Brian Jones Presents The Pipes Of Pan At Joujouka』、フランシスコ・ロペス『La Selva』ともに、「いまここ」を録音したものにも関わらず、我々に提示されている音源は強烈な「ここではないどこか」である。「コスタリカの熱帯雨林に今すぐ行くことができたとしても、その「現場」ではこのような圧倒的な音響体験ができるわけではないだろう。」ではどこなのか、それはブライアン・ジョーンズ、フランシスコ・ロペスがモロッコで、コスタリカで聴いた「野生的聴取」のなかにある。この二つの音源を聴く者は、ブライアン・ジョーンズとフランシスコ・ロペスの野生の耳を借りて聴いているのだ。そして「このことを言い表わすために、たびたび「野生」「野生的聴取」という言葉を使った。ここでいう「野生」「野生的聴取」とは、つまりは全身的な作用としての「聴く」ということであり、その対象は音に限るものではない。単に「ことさら鋭敏な聴覚」という意味ではないことは改めて強調しておきたい。」この指摘には「野生」「野生的聴取」という言葉を用いた、「聴く」ということ、そしてフィールド・レコーディング、現地を録音するということに対する畏怖のようなものがあるのではないか。それは記憶・距離・遠さ・といった言葉から、前向きな諦めを感じさせる言葉がそうさせるのだろうか。
この「録音という汲み尽くせないもの-ドキュメンタリー映画との比較において」という章では、即興演奏のライブ録音、現地録音やフィールド・レコーディングを聴くこと、について問われている。それは聴き手だけでなく、録音する側にも同様の問いかけができるのではないか。録音者も当然、録音対象を聴いている。そこには録音された音源を聴く聴取者と同じく聴く態勢、すなわち耳の眼差しがある。その耳の眼差しによって録音される対象、実際に録音される音はずいぶん違ってきそうである。あらためて耳の眼差しとは「聴く際の意識の向け方、身体の構え」である。このことは録音者だけではく、演奏者にも同様のことがいえる。聴こえてくる音に深く潜れば潜るほどに、その音の扉は大きく開かれるだろう。フィールド・レコーディングを聴く(録る)、現地録音を聴く(録る)、即興演奏を聴く(演奏)することとは、その場その瞬間を聴く、録る、演奏するということのみにあらず、聴く(録る・演奏する)対象の現場での音の振る舞いを耳の眼差しを持って観察し続けるということであり、それは果てしない「オールオーヴァー」であり、その場の「暗騒音」を感知し触れることであり、太古から流れる「地質学的想像力」に耳を澄ませてみることである。聴くということの途方もなさを思うととても「耳」だけに聴くことを任せるわけにはいかない。耳から触手が出るだろうし、鼻からは両足が出てくるかもしれない。目からは耳が生えてきて、口からは音が聞こえてくるだろう。