今週末(10/25)私が参加しているdubバンドYYBYのライブがあります。取り置きございましたら、wareyyby@gmail.comまでお願いいたします。
『This Dub Is Mellow』
@NOON +CAFE
2026.10.25(SUN)
17:00-21:00
前売り:3,000円 当日:3,500( +1drink)
予約特典アリ
■Live
YYBY/Bagus! with DUB KAZMAN
■DJ
e-mura/NAKAM
■FOOD
錯覚




あらためてこのブログは、Xに投稿した『松籟夜話plus』in京都へのお誘い、ワード集から加筆・修正を加えたまとめになる。本文からの引用をもとに私の所感のようなものを書く。(最近の投稿は引用していない。)ネタバレもあるので気にされる方はご注意を。『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』を読んで、「ああもよめる、こうもよめる」の一つになれば幸い。ちなみ私は何かの専門家ではないし、専門に学んだわけでもない素人である。間違ったり勘違いしている箇所があると思う、そこはご容赦いただきたい。素人目線だからこその気づきがあれば、と思って書いているので暇つぶし程度に読んでいただければ幸い。そして松籟夜話、『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』に興味を持っていただければこれ以上のことはない。
『音響・環境・即興 松籟夜話――〈耳〉の冒険』‐カンパニー社
『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』P458より引用。
ワークショップ「みみをすます」では、「音を聴く」「静けさを聴く」「みみをすます」という三つの段階に分けて、音に対する意識の枠組みを注意して取り除こうとする。「音を聴く」段階では、ふだん周囲の音を聴く時のように、「あれは何の音だろう?」という興味に従って音を聴いていく。この段階では、明確に名付けられる音を中心に聴くことになるだろう。これを仮に「音の図」と呼んでおく。次に、「静けさを聴く」の段階では、「音を聴く」の段階で聴いた「音の図」の背景にあった音、すなわち「音の地」を聴こうとする。近くで話している人の声、通り過ぎる車の音、鳥の声、飛行機といった音は、比較的「音の図」として意識に届いて来やすい。対して、その背景にある、向こうのほうの幹線道路、さっき通り過ぎた飛行機の名残のうなり、遠く波打ち際の潮騒、ビルの向こうの公園の木立のざわめき、といった音は、目立つ音の背景に紛れマスキングされてほとんど意識には上らない。「静けさを聴く」は、こうした音を焦点化しようとするこころみである。
ワークショップ中に、注意を喚起するために「ほら、あの・・・」と指し示すことがある。たとえば「向こうに飛んでいった鴨の羽音」と名指す。「その背景にあるぼんやりした音」と名指す。そうすることによって、鴨の羽音と、その背景にある音が切り分けられて、別個のものとして知覚されうるというのは、確かなことだ。だが、これでもまだまだ甘い!音を分類して聴くことから、何一つ自由にはなっていないのだから!私が常に音環境学の方法論に疑問と不満を持つのは、こうした明確に名付けられる音を中心に聴くことの外に出ようとしないこと、名付けられる音しか聴こうとしないことに対してだ。名付けられない無数の音があり、音として切り離して認識できないような身体感覚が情動と深く関わっていることは、これまでにも何度も述べてきた。
次の段階「みみをすます」では、「音の図」「音の地」と区別していた音を、すべて等しく聴こうとする。先ほど述べたような、どこかひとつに焦点化せずに音のテクスチャーを見渡すように聴こうとするやり方だ。音を聴取することが生命活動である以上は、聴こえてくる音に対して常に意味付与していることになる。背後から近づくバイク、右から左にすれすれを走り抜けていく自転車、あなたに呼びかけてくる人の声、それらを瞬時に判断し身の危険をかわしたり、友人の声に笑顔を作って振り向くこともあるだろう。だから、こうした音の「図」と「地」の関係をいったん括弧に入れて、意味を捨象して聴こうとすることは、もともと無理のある想定ではある。ただし、ふだんから意味と無意味を選り分け、「図」と「地」を聴き分けている聴取の枠組みが、曖昧で恣意的なものであること、相対的なものであることに気づくことはできる。そのことが、凝り固まった聴取の枠組みをストレッチし、聴取の自明性を揺さぶる。静寂は、それを感受する意思に基づいて創出することができるものであるということに思い当たることになるだろう。さらに言えば、何の音なのか発生源が明確ではない音とも言えない何か、名付けられない曖昧模糊とした空気の動き、といった記述できないものにこそ、聴くことだけが開示してくる世界の厚みのようなものがあることに気づくのである。ただし、やはりこの「みみをすます」という状態は、辿り着くことのできない彼岸のようなものなのかもしれない。
津田さんが開催しているワークショップ、「みみをすます」の実践、という項からの引用である。「みみをすます」で実践されている、「音を聴く」「静けさを聴く」「みみをすます」という三つの段階の説明、そしてその実践から感じた、なんというか、どうしようもなさからくる面白み、みたいなものを感じる。それは!マークが初めて文章にでてきた音環境学の方法論への疑問や不満、「みみをすます」という状態へ辿り着くことへの困難さ(彼岸という言葉が使われている。)が書かれているからだろう。此岸にいる私はこの文章を読んで、ここでいう「みみをすます」こと、「聴くことを深める」ことへの意思を再度固めた。この困難さに直面しているのは、私だけではないんだろうな、という安心感もある。これを書いている最中に何台かの車が通り、鳥が鳴き、犬の吠える音が聴こえた。そして全ての音を同定している自分に気づき、無意識で音を聴き分けているということにあらためて驚く。聴くことを意識すればするほど、音の切り分けははかどってゆく。
最初に引用した箇所の前にこんなことが書かれている。(P457より引用)
フィールド・レコーディングをするうちに、多くの人が耳を塞いでしまうような場所-道路工事現場だの家電量販店だの-の中でも平然としていられることに気づき始めた。つまり、「聴き分けられない」「聞き取れない」という状態そのものを受け入れるのだ。
その一方で、静寂を求めて、まだ春にならない頃の吉野山の奥、西行庵まで登ったこともあった。そこは、確かに静かだった。しばらくその場に佇んで開放感のようなものも味わったと思う。だが、そこは静かで居心地が良いというな場所ではなく、私はだんだん退屈してきた。冬枯れた土手と杉立ちはあらゆる音の響きを吸い取ってしまうようで、やがてうすら寒いようなおそろしい気持ちになったのだ。(中略)
そこでは「図」となるような目立つ音もなく、そうした音の「地」にあるはずの暗騒音も静まり返っていたのである。
これらの体験を通して考えたことは、次のようなものだ。世の中には、うるさい音と静かな音があるのではない。音数が多いからうるさく、音数が少ないから静かだというわけでもない。つまり喧騒と静寂があるのではない。これらは聴くものの心理や知覚や意識の状態によって左右されながらも、しかし単なる「心の持ちよう」として片付けられるものでもない。その音がどう聴こえるかということには、聴取の能動性の問題が関わっているはずだ。
引用箇所の家電量販店での「図」が溢れかえっている状態、西行庵での「図」も「地」も暗騒音すらない状態。このどちらもオールオーヴァーな状態であるといえないだろうか。「図」が溢れかえっている家電量販店はわかりやすいとして、「図」も「地」もない状態は、どこにも焦点を合わせるところが無い、無焦点のオールオーヴァーな状態と言えるだろう。このオールオーヴァーな状態を最初の引用文にある、「「図」と「地」を聴き分けている聴取の枠組みが、曖昧で恣意的なものであること、相対的なものであることに気づくことはできる。」と書かれてある内容に近いのではないかと考えた。「気づく」ということが重要であり、オールオーヴァーを含む耳の眼差しの三相とは、「耳の眼差しが通常のやり方では通常のやり方では適用しない特例的なケース」である。聴取の困難さは耳を能動的にさせる。普段の暮らしのあちこちに〈暗騒音〉〈オールオーヴァー〉〈地質学的想像力〉を感受できる状態に実はあるのだが、単に意識に上っていない、ということもある。実は深淵となる裂け目・割れ目を易々と跨ぎ越していることも日常的にあることだ。耳の眼差しの三相を駆使する状態を自らつくることも可能である。『音響・環境・即興 松籟夜話-〈耳〉の冒険』に掲載されている音源がそのための格好のプレイリストとなる。自ら耳の眼差しの通用しない危機的な状況に晒すことで「そのことが、凝り固まった聴取の枠組みをストレッチし、聴取の自明性を揺さぶる。」ということはできそうだ。松籟夜話の場において、強度の高い音にいきなりぶん殴られる、ということも効果は高そうだ。前回書いた「聴取の深化には、音の裸形が露わになるような認識の変化が必要だ。」ということははっきりしている。ワークショップ「みみをすます」はその試みであるのだろう。
ワークショップ「みみをすます」が11/14(土)に開催。





